(6)幕末・維新期の壬生城

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 幕末の壬生城については、前項“(5)壬生城の改修”でも触れたように、火事や地震といった災害に相次いで見舞われているが、そこにもう一つの災難が加わる。戊辰戦争である。
 城主の変遷でも触れたように、徳川家との関係の深い鳥居家が藩主であった壬生藩は、15代将軍徳川慶喜の大政奉還の後、旧幕府側に付くか新政府側に付くか紆余曲折の末、新政府側に付くことになった。そして壬生城は、新政府方の拠点の一つとして、徳川家の聖地、日光を目指し北上する大鳥圭介(旧幕府の歩兵奉行)を中心とした旧幕府軍の行動を阻止する役割を担った。
 とくに、慶応4年(1868)4月16・17日の小山付近での戦闘により新政府方が敗北すると、兵力増強のため、江戸から鳥取・土佐・松本の藩兵が壬生城に送られ、下野国内からも吹上藩(栃木市吹上町)の藩兵も加わったため、二の丸の城主居宅や城内の武家屋敷を、これらの宿舎として提供したことが記録に見られる。
 また、4月19日に旧幕府軍により、宇都宮城が攻められ落城すると、翌20日には、壬生藩でも城や城下町の主要な出入口の防備を固めている。
 そして、当初は旧幕府軍の攻撃目標になっていなかったが、兵力の増強が進み無視できない存在になった壬生城に対して矛先が向けられることになった。4月22日旧幕府軍は南下を始め、これを阻止しようとした新政府軍との間で、早朝から安塚の周辺を舞台に戦闘が行われ、激戦となっている。
 そんな中、旧幕府軍の一部が雀宮から石橋を抜けて壬生城の攻撃に当った。当初、船町の辺りで戦闘が行われたが旧幕府軍に押されて劣勢の中、籠城戦となった。城下町に侵入した旧幕府軍は、城下町に放火をするが雨のために4・5軒の焼失で止まった。中には大手門前の町屋に放火を試みた兵もいたというから、かなり劣勢であったことがわかるが、この旧幕府軍の兵力に余裕がなく撤退してくれたことが幸いして、壬生城は生き残ったのである。
 しかし、1年後の明治2年(1869)4月20日には版籍奉還が行われ、領地の支配者(藩主)の居城という役目を終えることとなったため、同年10月5日には政府に対して次のような上申書を提出している。
 「當藩城郭門塀隍塁等大破之場所修理不行届候間、破損之儘營繕不差加候テ不苦候哉」
というように、城の破損箇所の放置を申し出ているのである。これに対して政府からの回答は、「問フ處ノ如ク妨ゲナキヲ以テス」というものであった。その大きな目的は、士族授産のための用地の確保、ということが明記されていて、かなり早い時期に廃城の方針が打ち出されている。
 明治4年(1871)7月に廃藩置県が行われると、全国の城は各県の管理下に入り、翌、明治5年(1872)12月(改暦により明治6年1月)には城郭存廃決定(廃城令)が出されて、城の存続・廃止が決定されていく。日本のほとんどの城は廃城に決したが、壬生城はそのリストの中には入っていない。
 壬生城の場合は、それよりも早く明治4年10月20日付けで、県庁用地・士族の居住する屋敷を除く城地の払い下げが布告されている。全部で10の区画に分けられており、入札によって払い下げが行われていることが史料からわかる。その内容は下の表〔表-2〕のようになっているが、城地の払い下げが行われた、ということは、壬生城が明治4年10月には既に実質的に廃城となっていたことの表れであり、そのため明治5年の廃城リストに壬生城の名が見られないものと考えられる。
 一方、門や塀などの建物の方がどのような経過で取り壊されたのかについては、物語る史料が見られないが、他の城の例を見ると、城地の払下げと前後して建物の払下げも行われているので、壬生城の場合も同様の経過をたどったと考えられる。
 なお、壬生城の城門と伝えられる門が2基現存しているが、移築についての詳細は残念ながら不明である。
 以上のように、幕末・維新期の壬生城は数々の災難の中にあった。戊辰戦争の時には、わずか1日足らずではあったが、大手門付近で攻防が行われたことは、約300年の間、政治の中心としてのみ機能していた壬生城が、城本来の姿を取り戻した一瞬でもあったと言えよう。
 そして、版籍奉還・廃藩置県を経て、明治4年10月の城地払い下げによって、壬生城の城としての命は終わったのである。
 
 城   地   名坪  数反  畝落 札 金 額
第壱番割地元本丸外堀敷 四方不残3,3471町1反1畝17歩37両       永141文
第弐番割地霊社前ゟ東西南北堀敷迄5,1681町7反2畝8歩51両
第三番割地操練場東西南北2,8559反5畝5歩80両     永 16文6分
第四番割地元搦手門外ゟ北西元長源寺裏迄2,0086反6畝28歩3両3分  銀3匁7分
第五番割地元搦手門外ゟ南東元大手門外迄2,5238反4畝3歩5両
第六番割地元大手門前町通り不残1,5265反 26歩・・・   ・・・   ・・・
第七番割地元大手門外ゟ密蔵院 夫ゟ馬場并南外堀敷迄2,4058反  5歩130両   銀3匁
第八番割地新長屋南裏堀ゟ中門入堀并南門外迄1,9656反5畝15歩70両
第九番割地南門外ゟ西北元長源寺西迄2,7689反2畝8歩60両
第十番割地字正念寺旧隍二ヶ所不残920 3反 20歩15両   銀5匁3分3厘3毛
表-2 城地の払い下げ状況一覧