(7)その後の壬生城

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 廃城後の壬生城の歴史は、土塁や堀の破壊の歴史であったと言っても過言ではないだろう。廃城からわずか17年余り後の地図(迅速測図:陸軍測量部作成)を見ると、下の図のように城があったことなどが嘘のように、ほとんど城の痕跡が見られない。
 城跡の記号(凸)が記されている所、ここが本丸跡になる。ここが完全に残っている以外は、本丸の右下にカギの手[」]になっている所と本丸の北方に、土塁を示すケバが見られるが、その他には見られないことから、すでに大半の土塁は崩され濠は埋められたと考えられる。「高壘深塹割拠ノ旧習ヲ脱シ、利用厚生文明ノ風化ヲ皷ス」というように、城を壊すことを良いこと、とした壬生藩の方針が、積極的に実施されたことを示している証拠であろう。その後の壬生城については、昭和2年当時の状況が次のように記されている。
 「二の丸三の丸は堀を埋め畑地に化し亦は宅地に變し見る影だになし、本丸の跡のも僅に存じ昔を偲ぶに足る東北は畑に變り數十株の梅を植ゆ南西の城郭の堀は昔の儘殘り僅に水を留む本丸の周圍は土手を廻し城跡には子爵家の休憩所として閑靜の殿屋ありしも可惜昭和二年の春頃祝融の災に罹れり。
 今回温情深き子爵家は全部城郭跡を壬生町に讓与せりと町は是れを公園として公共事業を計劃目下地拵中にて(後略)」
というように、本丸周辺の様子を描写している。
 これによると、本丸以外は見る影もなく、わずかに残る本丸跡は土塁が巡り、濠には水が入っていたことがわかる。さらに、本丸内部には旧城主の鳥居家の別邸があったが、昭和2年の春、祝融の災、つまり火事になり焼失したこと、そして子爵鳥居忠一から城跡が寄付され、町は公園として計画中であることが記されている。
 しかし、第二次世界大戦後の昭和23年(1948)、この本丸跡に公園ではなく新制中学校(壬生中学校)が建てられることになり、北側の土塁が崩され濠が埋められて校舎が建設された。その後も2度の校庭拡張により、北側を中心にその東側と西側にかけての土塁・濠がなくなり、本丸跡は往時の1/5余が残るに過ぎないまでになったのである。
 ところが昭和56年(1981)には壬生中学校が移転し、その跡地に、中央公民館・図書館・歴史民俗資料館が建設されることになった。その際、建設予定箇所の発掘調査が実施された。発掘調査は3館の建設された本丸跡の他、二の丸跡でも実施され、昭和59年(1984)から昭和62年(1987)まで断続的に実施され、多大な成果を挙げているが、この調査はあくまで記録保存が目的であり、調査の終了した後は、公園や駐車場として整備されている。
 城址公園と名称の付けられた本丸跡は都市公園として整備が進められたことにより、平成元年(1989)最後まで残っていた本丸南側の土塁や濠が、整形した石を組んだ石垣風の造りに改められたのである。
 この整備によって、明治に廃城になった壬生城は、昭和の終わりとともにその遺構はほぼ完全に姿を消し、平成とともに新・壬生城が誕生したのである。
 
 なお、現在見ることの出来る遺構やその痕跡は、下の図〔図-2〕のようになっている。断片的ではあるが、各所に点在しているのがわかる。その中でも旧本陣の松本家南側に残る土塁と濠は、多少後世の手が加えられているものの、本丸跡の土塁と濠の姿が旧城の面影を失った今、壬生城の面影を最も良く伝えている唯一の遺構と言っても過言ではない。
図-1 迅速測図にみる壬生城跡

図-2 遺構の分布