(8)日本城郭史上の壬生城

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 壬生城の城としての歴史は、以上見てきたような経過にあるが、日本の城の歴史で見るとどうであろうか。
 “Ⅱ-1.城主の変遷” で触れた、(1)第一期壬生氏の時代から(2)第二期城主の交代期へと移る前後の時代は、日本の城や城下町の歴史からも大きな転換期にある。中世の城から近世の城への城郭の再整備と城下町の建設が行われた時代である。
 特に、壬生氏の滅亡した天正18年(1590)頃から、一国一城令により築城に対して制限が加えられるようになる元和元年(1615)までの30年間は、日本の城郭史上、城が最も発達した時期である。現存する建築、著名な城の多くは、この期間に築かれたものであり、その築城者は、織田信長や豊臣秀吉に仕えたのち徳川家康に仕えるようになった、いわゆる織豊系大名が多い。
 この時期の壬生城は、廃城となっていたと考えられる結城氏の時代は論外とすると、日根野氏の時代となる。日根野氏は、“城主の変遷”で見たように織豊系大名の一人であり、吉明の父、高吉は信長・秀吉の下で築城経験に恵まれ、「諏訪の浮城」として諏訪湖の湖水を利用した平城の傑作として名高い高島城を築いた実績がある。それから考えれば、城というと誰もが思い描く石垣に囲まれ天守のある城、つまり近世の城に変えられる技術は持っていたと考えられる。
 しかし、結果として壬生城は中世的な城の面影を残した城のままであった。その理由としては、先ず財政的な問題が挙げられる。領地が1万石そこそこでは、城の姿を一変させるような大工事は行えず、手直しをする程度と考えられる。
 次いで考えられるのは、関東という場所の問題である。関東の城の多くは、石垣や天守といった近世の城としての要素を持った城は非常に少ない。将軍の居城、江戸城を除くと、江戸の西方防御の拠点となる小田原城と江戸幕府の成立以前から存在していた沼田城くらいしか見られない。あとは御三家の居城、水戸城さえも土塁の城であり、天守に相当する櫓も「御三階櫓」と称していたほどであり、川越・佐倉・古河・高崎などといった幕府の老中になる大名が城主であった城でも同様であった。
 関東は、壬生城と同様に小大名が多い、領内から良い石材が産出しない、ということもあろうがやはり幕府のお膝元、という地理的条件が最大の理由と考えられる。その中で壬生城は典型的な関東の城であったと言えよう。
 また、壬生城については日本の城郭史の中で特筆すべきことがある。“(5)②城の改造”で触れた元禄年間の東郭の築造である。
 「諸国之居城、雖為爲修補必言上、況新儀之構營堅令停止事、城過百雉國之害也、峻塁浚隍大乱之本也」      (『台徳院殿御実紀』巻卅九 元和元年7月7日の条)
 というように、元和元年の武家諸法度の公布により、「城の修理は幕府に届け出て許可を得ること、新しく築城工事を起すことは禁止すること」になった。寛永12年に建物に関しては、一部緩和されたが、土塁や濠などの土木工事については、厳しく規制されていたのである。
 つまり、日本の城は縄張りを始め、櫓や門といった主要な建築は、元和元年のとおりに維持することが原則となり、省略されることはあっても増強されることはなかったのである。
確かに元和以降でも、新築や大きな改造が行われた城はあるが、これらは新しく封じられたため居所が必要だったり、海岸防衛の拠点造りなど、明らかな理由があった。
 ところが壬生城の場合、元和から80年もたった元禄時代に、曲輪の拡張(塁濠の整備・馬出の築造・櫓門の建設など)が行われているのである。戦乱とは程遠い泰平の世の真っ只中にあって、城の改造を必要とする理由は見当らない。考えられるとすれば、あまりにみすぼらしい城なので、城の表玄関である追手口の見栄えを良くしようとした、としか考えられないが、前述のように城の増強に厳しい状況下で改造が行われたことは、不思議なことである。
 その最大の要因としては、“Ⅱ-1城主の変遷”で触れた、5代将軍綱吉と松平輝貞との関係が考えられる。綱吉のお気に入りとして柳沢吉保に次ぐ側近だった、ということが改造を許された理由と考えられるが、いかがであろうか。
 壬生城は(~後で詳しく見ていくが~)城としては、典型的な関東の城、という以外、これといった特徴はないが、城郭史の中で見てみると、結構面白い存在と言えるかもしれない。