(2)初期城下町

17 ~ 21 / 78ページ
 壬生氏の時代は城下町の形成についての確証が得られなかったが、江戸時代には間違いなく城下町が形成されていった。その時期について見ると、『壬生町史』等では、元和・寛永期に一応の整備がなされ、元禄に再整備があり城下町が確定した、というように、2段階に分かれて成立したとされる。
 前節の“Ⅱ-2(3)日光社参と壬生城”で触れたように、元和3年に将軍の日光社参があり壬生宿城が行われたことからは、大勢のお供の武士たちを収容できる町屋が存在していたこと、つまり城下町が形成されていたことが窺えよう。
 そしてこの城下町は、復元図の城下町とは異った姿をしていたと考えられる。これについての検証をこれからしていくが、復元図の城下町と区別するため、ここでは「初期城下町」と呼びたい。
 
①町名に見る町割
 この日光社参関連の史料には、初期城下町の様子を明らかにするためのヒントが数多く記されていて、その一つに町名が見られる。「宿割帳」という、お供の武士たちの宿舎を割り振った史料には、誰が・どこの・某の家を宿舎にするかが列挙されている。現在、寛永17年・同19年・慶安1年・寛文3年の4回の宿割帳がある。(寛永19年の日光社参は、往復とも宇都宮経由で行われ壬生宿城の記録は見られないが、宿割は行われたらしい。)
 これらの宿割帳に記載されている町名を整理してみると、下の表(表-3)のようになっている。比較のため、江戸時代中期の『表町・通町明細帳』と幕末の『壬生領史略』に記されている町名もあわせて表にしてある。
 
 壬生宿割置帳明細帳壬生領史略
(寛永17年)(寛永19年)(慶安1年)(寛文3年)(正徳2年)(嘉永3年)
表町表町
おもて町・・・・・・・・・・・・
・・・おもて町三丁目・・・・・・・・・・・・
・・・表北かわ・・・・・・・・・・・・
・・・おもて町入蔵ノ内蔵之内・・・・・・・・・
・・・・・・表町三条表・・・・・・・・・
表町ふろ小路ふろかうぢ風呂小路・・・・・・・・・
横町・・・・・・表町上横町上横町
・・・おもて横町表町(ノ)横町表町下横町下横町
通町通町
・・・通町下丁・・・・・・・・・・・・
通町之横町通町横町横町・・・
・・・・・・・・・・・・・・・通町搦手横町
・・・・・・・・・船町
あら町・・・・・・・・・
荒町・・・・・・・・・・・・
・・・・・・新町
他・在郷小袋町・・・・・・・・・
こふくろ町・・・・・・・・・・・・
今井町今井村今井
ミやの下宮ノ下・・・宮下
あくと・・・あくと村・・・・・・・・・
西かうや・・・西高野村西高野
げんだぎ村・・・・・・下馬木村下馬木
・・・下臺村下台東下代
・・・・・・・・・・・・下山
藤葉
・・・下川岸
表-3 城下町名一覧

 こうしてみると、慶安までと寛文以降とでは、町名に違いのあることがわかる。ここに示した史料のうち、寛文までの4史料は宿割の記録であり、何らかの理由からその町に割り振られなかったとする考え方もあろう。
 しかし、壬生周辺はもとより、遠く小山や鹿沼とその周辺の村まで宿舎として割り当てられているのを見ると、城下に存在した町屋は、ほぼ網羅されていると見ていいだろう
 この考え方で上の表(表-3)を見ると、次のような点が挙げられる。
 ア 主な町は寛永期から存在している。
  表町・通町・新(荒・あら)町等の町名は、寛永17年のものから見られる。
 イ 慶安までと寛文以降とで町名に大きな差がある。
  ・慶安までに見られ、その後見られない町名:小袋町・風呂小路・蔵之内・あくと
  ・寛文以降に見られる町名:船町・上横町・下横町
 ウ 表町内の町名・町並に差異が見られる。
  ・表町三丁目の表記から、当時は少なくとも1~3丁目に分かれていたことが窺える。江戸時代中期以降の城下町では、表町は上・中・下の3つからなっている。
  ・表北かわの表記から、全部か一部かは不明であるが、町並みが東西に連なっている所があることがわかる。復元図からも明らかなように、後の表町は南北に連なる町である。したがって道の北側にはありえないことは明らかである。
 またこの表には表れていないが、寺名と所在一覧(P.71の表-25)の中に「ほうせい院」があり所在地を横町としている。この寺は豊栖院のことであり横町は表町の横町であると考えられる。豊栖院は『壬生領史略』等に表町地内とあり、移転の記録もないことから同じ表町には違いないが、上横町・下横町のどちらからも遠く隔たった所にあり、後世の横町と同じ所を指しているとは考えられない。
 以上が町名から見た初期城下町の町割の様子であるが、我々が壬生の城下町として思い浮べる町の姿、つまり今回復元図にした城下町に見られる町とは異なった城下町の姿がそこに見られる。
 
②絵図にみる町割
 町名から見た町割を平面図として具体的に示しているのが、当時の姿を写し取ったと考えられる絵図である。その絵図は、城の改造(P.10)で触れた、「三浦壱岐守」の端裏書のある壬生城の絵図と同じ系統の絵図である。
 その中でも、平成5年秋の第7回企画展「壬生城」で壬生町では初めて公開された国立国会図書館所蔵の「下野国壬生城図」は、最も詳しく城下町の姿を描いている。この絵図は、城下町だけでなく当時藩領であった村々について、村(町)名・家数等が記されている。そのうち城下町の部分をトレースしたものが、下の図〔図-3〕である。
 ここには、慶安までの宿割帳に見られる、“小袋町”“風呂小路”等の町名が確かに記されているし、ここに見られる表町は、通りの南北にまた東西に連なる町として描かれ、「字古表町」の位置とも一致している。
 これにより、従来は全く知られていなかった、小袋町、風呂小路町などが、どの辺りに存在していたのかを示す有力な証拠にもなっていて、この絵図が内容的にかなり信頼のおける史料となり得ることを示している。
 そして、これらの町が形成されている所の周囲が濠で囲まれていて城の一部として組み入れられている。つまり、ここが「下臺惣曲輪」ということになる。惣曲輪の名が示すとおりの構造であったことが確認できたのである。
 さて、『復元図』や『複製図』では、この曲輪には町屋は一軒もなく、足軽小屋と記されているように、後に足軽等の下級武士の長屋が建てられることになるが、初期城下町ではどこにあったのだろうか。下の図-3中A・Bとある所になるが、城下町の北の外れが並木足軽町、南の外れが下臺足軽町と記され城下町の外れにあったことがわかる。
 このように絵図からは、初期城下町の町割がどのように行われていたのか、その場所を具体的に確認できるとともに、宿割帳に記された町名をも確認できた。
図-3 『国会図』にみる城下町

 
③『下野一国』にみる城下町
 初期城下町を知る手掛りとして忘れてはならない史料がもう一つある。『下野一国』である。これは、慶安4年3月29日の奥書のある、下野国内の街道の道程を中心に記した地誌である。そのうち、「大道筋日光御山へ鹿沼道通り道法」という壬生通のことを記した部分があり、壬生城下の前後について、次のように記している。
 「此川(黒川)ゟ壱里山迄六町四拾八間、右之壱里山ゟ壬生町南ノ入口迄六町七間有、壬生町南入口ゟ上稲葉村迄弍拾三町三拾間、壬生町入口ゟ札場迄壱町三拾三間、壬生町乃長さ札場ゟ北ノ出口迄拾弐町十七間、北ノ出口ゟ稲葉村の壱里山迄十六町三間、壬生町札場ゟ城乃大手口迄壱町五拾間、右之大手口より北奥州街道分れ道迄四町有り(後略)」
 このように、言わばデータだけを並べただけであるが、それだけに作為が乏しいと考えられる分、史料的な価値は高いと考えられる。これらを模式的に示すと、下の図のようになる。
 この中で特に注目されるのは、黒川~壱里山(一里塚)~南入口の位置である。『下野一国』では、黒川と南入口のほぼ中間に一里塚が存在しているようになっているのに対して、後世の城下町での南入口と一里塚は、復元図にも見られるようにほぼ同じ所に存在しており、これは明らかに別の町割になっていることを示している。
 また『下野一国』では、奥州中街道についても「中仙道通り大道筋」として、次のように記している。
 「(前略)右之川(おりひ川:おもひ川の誤記か)ゟ壬生町入口迄二町、同入口ゟ安塚村へ出口迄拾町五拾間有、壬生町出口ゟ安塚村中迄弐里三拾間、壬生町乃うち奥州かいとふ出口迄(よりの誤りか)二町三拾間め黒川有り(後略)」
 壬生通と奥州中街道については上のように記されているが、ここに記されている各々の場所が具体的にどこになるのかについては、記されている距離を復元図上に当てはめると、いずれも長めにズレが生じ、さらに調査する必要があるため、ここでは復元図の町割とは差異が見られることを指摘するに留めたい。
 
 以上、町名、絵図、そして道程の記録という、来歴の異なる3つの史料について検討してみた。その内、町名と絵図については、両者がほぼ一致していることがわかり、初期城下町の姿は、今回復元した町割とは異なった姿であることがはっきりした。その成立した時期については、今のところ明らかにすることはできないが、町名が寛永17年の宿割帳に見られることから、遅くともこの時期までには成立していたと考えられる。