この初期城下町が、いつ復元図のような城下町に町割が改められたのかは明確ではない。通説では、元禄初年の松平輝貞による城の改修に伴い、城下町の町割の変更も行われたことになっているが、表-3を始め今まで見てきたように、寛文3年の宿割では、既に変更後の城下町の町名が見られることから、少なくとも寛文3年より前のことであろう。
つまり、現在明らかになっている、慶安元年から寛文3年までのこの15年間の出来事の中で、町割が大きく変わったものと考えられるが、城下の町割に影響を及ぼした事件として考えられるものに2つの火事の記録がある。
1点目は、既に触れた承応2年2月9日の大火である。『徳川実紀』に「城内ことごとく焼失せしよし」とあるように、城が全焼したということは“Ⅱ-2(4)壬生城と災害”でも触れたように、城下の火事が飛び火して城内も火事になっている例も多く見られることから、城を全焼させたこの火事も、城下町にかなりの被害を与えたものと考えられる。
もう1点は、「宿城一件」に出ている火事の記録である。
「寛永正保年御成之節者、南追手御成門ニ而、此道筋ニ小袋町与申御座候處、癸卯年御成前此町ゟ出火、大火ニ及候故、只今之通、町ヲ廻申候故、東追手御成門ニ罷成云々」
というように、寛文3年の日光社参以前に、小袋町を火元として火事が発生し大火に及んだ、というものであり、先の史料よりも具体的である。
しかもこの大火により、将軍の入城の経路が大きな影響を受け、従来は南追手から入城していたものが、東追手から入るように改められていることから、小袋町を始め、下臺惣曲輪内の町屋が、かなりの被害を受けたことが考えられる。
これら2点の火事の記録が、別の火事なのか、それとも同じ火事を指しているのか、についてはわからないが、城下の町割に変更を迫るきっかけとなったことは確かであろう。
結局のところ、初期城下町から復元図の姿へと町割が変更された時期は、現在のところ明らかにすることはできないが、通説の記す元禄初年(元禄5~8年)よりは、約30年は早く町割の変更があったことが明らかになった。