(4)壬生城下町の完成

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 少なくとも寛文3年までにはその姿が整えられていた、と考えられる城下町であるが、完成までにもう1度、町割の変更が行われている。元禄の松平輝貞による城の改造に伴うものである。
 この辺の事情について、具体的に物語る史料として『壬生城御代々社寺高反畝廃城凡覚書』がある。この史料が記されたのは明治になってからと考えられるため、論拠とするには少々難もあるが他に史料が見られず、別の史料から裏付けられる点も多いことから、ここで紹介したい。
 「松平右京大夫輝定(ママ)様御公儀様へ御居城日光通表大手増築御願済之上、町家屋畑御用地仰罷出取拂其町屋敷面々ニハ、表間口五間半太郎右エ門、同十六間四尺金兵衛、同拾貮間半右エ門、同六間五尺市右エ門、同九間半平左エ門、此五名之屋敷ハ大手前廣小路ニ相成(中略)右之面々宮道ニ屋敷居住仕候テ茂通並ニ壱間ニ付、永七文宛割被下置候也、右通町高八石八斗四升四合御用地引ニ相成」
この史料を要約すると次の6点が挙げられる。
① 大手前広小路が、5軒の町屋を立ち退かせて設けられたこと。
② 5軒は太郎右エ門、金兵衛、右エ門(何右衛門かは不明)、市右エ門、平左エ門であること。
③ 5軒の間口が合わせて51間(約93m)であること。
④ 移転先が宮道、つまり宇都宮街道の方であること。
⑤ 移転後も間口1間に付、銭7文宛間口銭が下されていること。
⑥ 移転後は年貢の内、高8石8斗4升4合が御用地分として免除されていること。
このうち、先ず大手前広小路の建設についてであるが、立ち退きになった町屋の数とその屋敷の主の名前・屋敷の間口が明らかになった。このことは、大手前広小路の部分にも町並が続いていたことを示すものであり、大手前広小路の規模が幅51間であることを示してもいる。
 また、5軒の屋敷が宮道、つまり宇都宮街道へと移転したことが記されている。元禄からは約30年後の享保12年(1727)に記された『壬生通町屋舗并間数書上帳』には、宇都宮街道には道の北側に「兵内、八右衛門屋敷伊左衛門、重郎右衛門屋敷五右衛門、庄蔵屋敷次右衛門」、道の南側に「弥兵衛」の5軒の町屋が記されている。この2つの史料の間には30年余の差はあるものの、家の軒数が同じであるということは大変興味深く、移転してきた同じ5軒である可能性は高いと言えよう。
 さらにこれらのことから宇都宮街道の町屋が、元禄以前には存在していなかった、ことになり、宇都宮街道に町屋が建てられたのは、元禄以降であることが明らかになったと言える。
 なお、間口銭について記されているが、これについての史料に、安永8年の『通町間口破損料割賦帳』がある。これには通町の各屋敷の間口の間数・銭高・持主の名前が記されているが、記載の順序は、町通分・横町等の別に記されているのでなく、壬生通の西側を南から町並に沿って北上し通りの東側を南下するという書き方になっている。
 これを見ると、通町のうち船町以外には間口破損料が下されているのがわかり、『壬生城御代々社寺高反畝廃城凡覚書』の記す通り、搦手横町・宇都宮街道といった大通りに面していない所にも下されていたことが確認できる。(通町内で船町だけ除かれている理由については不明である。)
 この間口破損料について『壬生表町通町明細帳』に収められている年貢の「御割附目録之次第」によると、表町にも通町と同様に下されており、次のように記されている。
「永 八貫弍百弍拾五文 町破損料 間口壱間ニ付永七文ッゝ被下候」 (表町)
「永 拾貫三百弐拾四文 町破損料 間口壱間ニ付永七文ッゝ被下候」 (通町)
という割合で、年貢高から差し引かれていた。
 一方、8石余の御用地引についても、『壬生表町通町明細帳』により確認できることから『壬生城御代々社寺高反畝廃城凡覚書』は、大手前広小路に関する限り十分論拠とすることができる。
 以上のように、大手前広小路の建設とこれに伴う町屋の移転により、壬生城下町の町割が確定した。これ以後、多少の改変はあるものの、約200年にわたって続く城下町の町並の大枠が完成したと言える。