(5)城下町の変貌

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①城下町と災害
 江戸時代に入って100年余を経過したところで、ようやく城下町の町割が確定したことを前項で見たが、これは町割という大枠であって、例えば建物等はもちろん変わっている。その契機となるのは災害、特に火事であると言える。城の場合と同様、災害の記録のほとんどは火事の記録である。
 下の表〔表-4〕は、史料に見られる火事の記録をまとめてみたものであるが、この中には、先に“Ⅱ-2(4)壬生城と災害”の中で触れているものもあるが、記録等により確認できる城下町の火災は下に示した12件である。
 発生の状況では、月日のわかっているものを見ると、11月~2月に発生しているものがほとんどである。夏に発生しているものでは、雷火つまり落雷によるものとなっている。
 これらの火事のうち「大火」と記されているものは、寛文3年以前・宝暦4年・天保8年・嘉永6年の4回に及んでいるが、天保8年・嘉永6年の火事は焼失範囲が広く、「古今に稀・古今になき大火である」と記されていて、被害の大きさが想像できる。また宝暦4年と嘉永6年は、火元がともに「宇都宮海道 伊勢屋忠兵衛」となっており、しかも2度とも大火になっている。
 城下町の災害については、これら火事以外は不明である。
 
発生年月日出火の状況被害の場所被害の状況出典
寛文3年以前小袋町火元下臺惣曲輪大火ニ及宿城一件
元文4年不明不明元文四未年、壬生町類焼之節宿助成金書上
宝暦4年伊勢屋忠兵衛火元城下町一帯宇都宮海道伊勢屋忠兵衛火元ニ而大火有之見聞控帳
明和4・2・14表町上横町火元上横町・城内同所(表町上横町)不残焼、御城内江飛火
天明3・1・3西高野出火西高野・城内同所(西高野)三軒焼、夫ゟ御城内江飛火
享和2・11・7暮六ツ時出火城下町の内壬生ニ出火 壱軒焼万日記覚帳
同・11・21船町の辺り壬生火事 神主家半分焼消候
享和3・6・12昼過雷雨有雷火ニ而表町雷火ニ而壬生表町ニ而七軒焼失
天保8・2・14大嶋六郎右衛門隣(北隣)より出火昼七ツ時より八ツ時迄新町曲り角迄壬生表町大嶋六郎右衛門(北)隣ゟ出火して、向側ハ萬屋庄兵衛ゟ新町曲角ゟ西へ三軒焼失、其内搦手横町三軒残り、福定院残り、船町三軒残、雄琴明神神主黒川豊前正迄焼失、古今稀なる大火なり見聞扣之帳
嘉永6・12・28宇都宮海道いせや火元暮六ツ半時 通町及び表町壬生宇都宮海道醴商ひいせや火元にて、宮海道不残、同所北側西の角高村と申饅頭やゟ残、通町西側加藤作太夫ゟ阿ら町残り、通り町不残、興光寺迄搦手横町残り、船丁ハ壱軒焼、下丁湯や残り、加藤蔵ハ門土蔵斗にて酒造蔵ハ残り、表町万や小田垣残り、興生寺馬場不残上野原観音迄類焼,下横町残江戸口木戸際東側五軒残、余ハ不残類焼・・古今ニなき大火なり見聞控帳
安政6・10・6夜八ツ半時新町壬生新町 鍛冶屋久右衛門焼失安政6年日記
慶応4・4・22旧幕府軍の放火城下町の一部敵兵五六人忍来リ、市中四五軒へ放火いたし、内一人大手前藤屋安兵衛ト申者ノ宅へ火を拵ケ候所を城内の兵打留申候諸御用留帳
表-4 城下町の火事の記録

②武家地の進出
 “Ⅱ-2城の移り変わり”で触れたように、幕末になると城下町にも武家屋敷(長屋)が建設されている。
 その場所は、下横町・東下台・新町の3ヵ所であるが、このうち下横町の場合は記録が残されており、その詳細がわかる。
 『下横町御用地取調帳写』(文久三癸亥年十一月)に記されている町屋の詳細は、下の表〔表-5〕のようになっている。
 下横町通り南際の8名分の屋敷、間口50間・奥行25間、総坪数1,250坪(但シ畝ニ直し 4反2畝20歩)の土地が御用地として上げ地となり、ここに合わせて5棟の長屋が建設されている。
このほか町人地の屋敷についても、屋敷の質入・譲渡・売買等で、屋敷地の所有の変化は相当あると考えられるが、未調査のため明らかにすることはできない。
 
間口奥行面 積名前
5253畝10歩喜助
5253畝10歩半蔵
6254畝惣兵衛
11257畝10歩傳八
5253畝10歩治右衛門
6254畝嘉七
6254畝右膳
6254畝多七
表-5 下横町上地一覧

図-4 『地籍図』にみる字の分布