○ 城と城下町について

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 城と城下町の歴史について、それぞれのテーマにしたがって振り返ってみたが、ここで簡単にまとめておきたい。
 壬生城は、室町時代の末に壬生胤業によって築かれた「壬生館」を始めとする。その場所は、常楽寺の北方と考えられる。現在の城跡に移ったのは、2代目の綱重の時代とされる。
 壬生氏はその勢力の伸展に伴い本拠を鹿沼に移すが、その後も壬生氏の主城の一つとして維持されていた。この当時、城下町が成立していた確証は得られていないが、その可能性は十分に考えられる。
 天正18年、中世の終わりを迎えようとする時代とともに、壬生氏が5代で滅亡したのちは、一時廃城となった時期があった。江戸時代には6氏15代が城主となり、明治維新によってその使命を終えるまで、1~3万石の小大名の居城として、あるいはその支配地域の政治を行う政庁である藩庁として機能していた。
 石高が少なく、関東という地理的な制約からと考えられるが、城の方は、中世的な姿を色濃く残している。大きな改造としては、江戸時代半ば、元禄年間に追手門付近の改造が行われているが、他にも細かい改修が何度か行われていることを示す史料が残っている。
 その間の城下町については、壬生氏時代の終わり頃には存在していたと考えられる城下町が、江戸時代になって整備が行われ、遅くとも三浦氏の時代には、一応の完成をみていたと考えられるがその町割は、我々のなじみのある城下町の姿とは異なるものであった。
 この「初期城下町」は、慶安元年から寛文3年までの15年間に、何らかの理由から町割の変更が行われている。その契機として考えられる最大のものは、火事による城下町の焼失、という出来事である。
 いずれにしても、通説よりは30年余り早く、城下町の町割の基礎が出来上がっていることは、特に強調しておきたい。
 この町割の変更は、武家地と町人地の分布、という点でも大きく変化している。初期城下町では城下町の南北の入口外側に足軽町、つまり武家地があり、通町の横町にも武家地が存在していたことを示す絵図も見られるのに対し、下臺惣曲輪という、塁濠で囲まれた所に表町・小袋町・風呂小路町・横町といった町人地が存在していた。
 これに対してその後の城下町では、塁濠で区切られた郭の中には、町人地は一つも見られず武家地のみとなっている。逆に武家地で城外にあるのは、城の南方、興生寺との間に数軒見られるだけというように、はっきりとした区分けになっている。
 しかし幕末になって参勤交代の制度の緩和をきっかけに、江戸詰めの武士が引き揚げて来ると、町人地の中に武家地が進出してくるようになる。中には、町屋を立ち退かせて武家屋敷(長屋)を建設している例も見られ、武家地と町人地が混在して来るようになる。明治に年号が変わった後はとくに顕著に見られる。
 この間に城・城下町とも、火事を始めとする災害に、度々見舞われている。「大火」と記されている火事だけでも4回を数える。
 その後、明治4年の廃藩置県によって、城の使命がなくなると、いち早く廃城の方針が打ち出されている。入札によって払い下げられた城地は、土塁を崩し濠を埋め次々と開墾されたことにより城の姿はほぼ消滅している。
 城下町については、新しい道や住宅の建設などで一見大きく姿を変えているように見えるが、町割の大枠は江戸時代のものが受け継がれているところが多い。