壬生城は、全部で6つの曲輪で構成されている。それぞれの位置関係は、下の図(図-5)のようになっている。
城の立地による分類で言えば、壬生城は平城(ひらじろ)に分類され、冒頭の“Ⅰ.壬生城と城下町の立地”でも触れたが、周囲よりも最大で3m程の段差がある。台地の上の小台地を利用して築かれており、この段差は北側から西側にかけて顕著に見られ、南方はあまり目立たないが、城はその地形を取り入れて曲輪が配置されている。
それぞれの曲輪の特徴を見てみよう。
○Ⅰ.本丸
台地の北西寄りに位置している。
○Ⅱ.二の丸
本丸の回りを取り囲んでおり、本丸との高低差はほとんどない。
なお、上の図[図-5]中の二の丸部分で点線で示した部分には濠が入り込んでいる。その濠によって隔てられた所(図中A)を「二の丸帯曲輪」と記している史料も見られる。ここは現在精忠神社の建てられている所になる。
○Ⅲ.三の丸
大きく見れば、二の丸の外側をぐるりと取り囲んでいる曲輪のように見られるが、平面図をよく見ると、土塁や濠によって3つの部分に分かれているのがわかる。これは地形的に見ると、三の丸が本丸・二の丸のように曲輪全体が同じ高さにあるのではないからであり、この3分割になつている所が、地形的な境界を示しているのである。
つまり、Ⅲ‐1の部分は本丸・二の丸とほぼ同じ高さであるが、Ⅲ‐2・3の部分は一段低くなっている。この高さの差が平面図では、塁濠によって3つに分かれて描かれているのである。
また、図中(B)の所は一段高く、二の丸とほぼ同じ高さにある。
○Ⅳ.東 郭
古くは“中門外曲輪”とも呼ばれた曲輪で、三の丸の東方にあり、台地の東縁部に築かれている。ここは“Ⅱ.城と城下町の歴史”でも触れたように、江戸時代中期に大改造が行われた所であり、上の図の[図-5]の中にある点線を境に東側(Cの部分)が増築された所である。
また、図中(D)の部分は、土塁が四角形をしており、櫓を建てるための土台、櫓台として築かれたと考えられる部分である。
○Ⅴ.下台郭
古くは“下台惣曲輪”“南門外曲輪”とも記された曲輪で、三の丸・東郭の南方に位置した曲輪で、三の丸の台地続きになる。
江戸時代初期には、ここに町屋があり惣曲輪という名称の示すとおりの構造をしていたことは先に述べた通りである。
○Ⅵ.正念寺曲輪
三の丸の北方に設けられた曲輪で、三の丸北部(Ⅲ‐2)とほぼ同じ高さにある。
以上が、壬生城の各曲輪の位置関係・特徴として挙げられる点である。
これらのことから、一般に言われている分類方法で曲輪の配置を表わすと、壬生城はどのようになるのだろうか。
先ず、本丸の周囲を二の丸が取り囲み、地形に高低差はあるものの、その周囲を三の丸が取り囲んでいる。このように、曲輪の周囲を「回字状」に次々と囲んでいく曲輪の配置は、輪郭式(あるいは囲郭式、環郭式)という形式になっている。
次いで三の丸の東・南・北にそれぞれ曲輪を付していく曲輪の配置は、梯郭式(ていかくしき)と呼ばれる形式になっている。
したがって、壬生城は輪郭式に梯郭式を複合させた縄張り、と言うことができる。
② 曲輪の規模
壬生城の各曲輪の規模について、面積(坪数)と長さ(間数)を示すと、下の表(表-6)のようになっている。
ここに記された数値は、坪数が延宝9年8月改、間数が延宝8年11月改、というように、江戸時代の中期以前の数値であるが、城の修築に大きな制限が加えられていた時代であることから、改造により坪数・間数に差異の生じた東郭以外は、廃城までほぼ同じ数値であったと考えられる。
なお、各曲輪の間数は「堀共ニ」計った長さであることが明記されていることから、土塁・濠を除いた曲輪の内法は、各々10~20間は小さい数値になる。
一方坪数の方は、本丸を例に見ると[表‐6]に記された数値と『土地宝典』による数値を比較してみると、ほぼ同じである。『土地宝典』の数値は、土塁の内側の数値であることから、坪数の方は曲輪の内法の数値であると言える。
坪数 | 間数 | 備考 | ||||
東 | 西 | 南 | 北 | |||
本丸 | 1,688 | 77 | 68 | 44 | 59 | |
二之曲輪 | 5,946 | 109 | 144 | 96 | 158 | |
三之曲輪 | 34,314 | 178 | 274 | 177 | 222 | |
中門外曲輪 | - | 98 | - | 116 | 126 | |
下臺惣曲輪 | - | - | 120 | 304 | 144 | 南門外曲輪 |
正念寺曲輪 | - | 68 | 80 | - | 152 | 裏門より北之方 |
表-6 曲輪の坪数・間数 |