(2)虎口

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 城の出入口のことを虎口(こぐち)という。虎口は濠や土塁で囲まれた城の内と外をつなぐ場所であり、城内に侵入しようとする者にとっては格好の場所ともなり、城の弱点の一つでもあることから、虎口の位置の設定には細心の注意が払われていた。
 また、容易に外から侵入されないようにいろいろな遮蔽物を造っている。その一つが門であり、多くの虎口にはいろいろな形式の門が建てられたことから、一般には虎口=門とされることが多い
 
① 虎口の位置
 壬生城には、縄張図〔図-5〕や下表〔表-7〕に示したように、全部で10ヵ所の虎口があった。
 その位置を見ると、大部分は曲輪の南か東にあり北や西にはほとんどないのが見て取れる。北側に虎口のあるのは唯一、「2新虎口」である。この虎口は“新虎口”の名が示すように、後世になって新設されたものであり、古くは本丸の東側(図-5縄張図中、2-①本丸裏門)の位置にあった。
 表-7を見ると“新虎口”の名称は、「4巽門」の位置にも見ることができることから、江戸時代に入ってから新設された虎口であることが窺える。
 なお、虎口が城の内と外の連絡口であることは冒頭で触れているが、壬生城の曲輪の中で、虎口のない曲輪が一ヶ所ある。「Ⅵ.正念寺曲輪」である。壬生城の最北端に位置するこの曲輪には、城外へ通ずる虎口もなければ、三の丸に通ずる虎口もない。
 
 虎口名虎口の所在外側虎口の構造
曲輪位置
1本丸門本丸二の丸
2新虎口
3二の丸門二の丸三の丸
4巽門内枡形状
5南追手門三の丸下台郭内・外二重の枡形状
6中門東郭 
7搦手門城下町虎口内に一文字土居
8追手門東郭丸馬出
9(四谷出口)下台郭虎口内に一文字土居
10(足軽町門)虎口内に一文字土居
表-7 壬生城の虎口

② 追手と搦手
 城の虎口のうち表口にあたる方を“追手”、裏口にあたる方を“搦手”と言う。追手は普通“大手”と書かれることが多いが、「敵を追い詰める方向にある」という意味から、本来は追手と記されていたものが、大手の字に転じたのである。
 一方の搦手の方は、「敵を裏から回り込んで搦め取る」という意味から、裏口を指すようになった。
 先ず追手について見ると、壬生城の場合“追手”の字がつく虎口は、[表-7]中「8追手門」と「5南追手門」の2ヵ所ある。“Ⅱ.壬生城と城下町の歴史”で見たように、古くは「5南追手門」が追手であったが後に「8追手門」の位置に変更になっている。
 これに対して搦手は、「7搦手門」の位置になるが、追手のような場所の変更は見られない。
 
 
 このように壬生城は、古くは南が追手、東が搦手という位置関係にあったが、江戸時代の半ば近くから、追手が東に移ったことにより、追手と搦手が同じ方向を向き、しかも隣合った場所にあるという、他にあまり例を見ない構成になっている。
 なお、南=表(追手)、東=裏(搦手)という虎口の関係は、本丸・二の丸についても同様の関係にあった。
 
③ 虎口の構造
 [表-7]に示した10ヵ所ある虎口のうち、虎口の内外に土塁による遮蔽物のないのは、「1本丸門」「2新虎口」「3二の丸門」「4中門」の4ヵ所になる。
 このうち「3二の丸門」については、虎口正面に番所が置かれ、一応は内側に直進できないようになっているため、全く無防備なのは本丸の2ヵ所の虎口と三の丸の「6中門」の3ヵ所である。
 次に、土塁等の築かれている6ヵ所については、その構造によって3つの種類に分けられるが、構造が簡単な順に見てみよう。
 
ア.一文字土居
 一文字土居は、虎口の内側あるいは外側に目隠しの土塁を築いたもので、築かれた土塁の形から名付けられたものである。壬生城では、「7搦手門」「9四谷出口」「10足軽町門」の3ヵ所に見ることができる。
 このうち「9四谷出口」は、虎口の左右の土塁が一直線にはなっておらず若干ズレが見られ“喰違いの虎口”と見ることもできる。
 なお、『壬生領史略』の中に見られる“喰違”は、この部分を指していると考えられる。
 また「10足軽町門」では、虎口両側の土塁が通路に沿って内側に延びているのが見られる。
 
イ.枡形
 枡形とは、虎口の内側あるいは外側に土塁等で四角に囲んだ空間をいうが、壬生城でこのような構造になっているのは、「4巽門」「5南追手門」の2ヵ所である。どちらも土塁を屈曲させて虎口の内外に空間を作っているが、土塁等で完全に囲んでいるわけではなく、門も一つだけであり、枡形としては不完全な構造であり、“喰違い虎口”と“枡形虎口”の中間あるいは過渡的な構造と言えるがここでは“桝形虎口”と考えておきたい。
 「5南追手門」については、絵図によって虎口の描写が異なっている。内側の枡形がないもの外側が濠あるいは土塁だけのもの、など様々であるが、ここでは城修築の際の絵図や『壬生領史略』等から、縄張図〔図-5〕等のような形であったと考えておきたい。
 このうち一番問題となるのは、外枡形の部分である。ここは土塁だけ、あるいは濠だけで描いている絵図が多い。『壬生領史略』では、土塁だけのようにも見えるし、前面に濠があるようにも見える。
 一方、地籍図〔図-4〕では、“字城南堀敷開墾地”の内(A)の部分になるが、この「堀敷」は他の部分、例えば本丸や同じ「堀敷開墾地」とある三の丸西側等を現状の地形図と対照させてみると濠だけではなく、土塁の部分、すなわち土居敷も含まれた幅があることがわかる。
 したがって、この外枡形の部分は、絵図に見られるような土塁だけ、濠だけというのではなく、土塁と濠により構成されていたと考えられる。古くは追手であったという歴史が示すように、壬生城の中ではかなり厳重な構えになっており、追手の名にふさわしい虎口であると言える。
 
ウ.馬出
 馬出とは、虎口の前に設けられた半円形、あるいは四角形の小さい曲輪のことを言い、虎口の防御と攻撃を合わせ行うための構築物である。
 壬生城では「8追手門」に見ることができる。この馬出は、平面で見ると半円形をしており“丸馬出”と呼ばれるものである。その構造を見ると、南と北の2ヵ所に出入口があり、その内側には土塁が築かれているため、この土塁を迂回し濠を渡って虎口に至る、という複雑な構造になっている。
 また追手は、東郭の凹部にあるため、馬出から見ると東郭が両側から迫り出している形になっている。