①塁
壬生城の城塁は、絵図・文献等の史料を見る限り、すべて土塁であった。近世城郭の特徴である、石垣が使われていない理由としては、“Ⅱ.壬生城と城下町の歴史”の中でも触れたように、石高が小さい、石垣に適した石の産地に遠い、関東という幕府のお膝元のため堅固な城を築くのを遠慮した、という3つの理由が考えられるが、いずれにしても、典型的な“土の城”であった。
壬生城の土塁については、昭和59年から昭和62年まで実施された発掘調査によって、その構築方法の一部が明らかにされ、第7回企画展図録『壬生城』(壬生町立歴史民俗資料館)などで発表されている。
本丸土塁の場合、濠側の土塁基底部には、立杭と横木(丸太)による土留め工事が施されており、その上に土塁が築かれている。しかも、外側(濠側)は、土や小石を何層にも突き固めた「版築(はんちく)」と呼ばれる方法で築かれた堅固な土塁となっている。
二の丸土塁の場合は、濠を掘った土を積み上げただけで版築は見られない。
次に、土塁の規模については、当時の史料には見られないため、わずかに残る遺構から判断すると、高さは3~5m(2~3間余)と考えられる。
②濠
壬生城の濠が、水濠だったのか空壕だったのかについては、わからないというのが実状である。場所によって、あるいは季節によって、水があったりなかったり、という状態であったと考えられる。一例を示してみよう。
現存する遺構のうち、東郭の櫓台(図-5の縄張図中(D)の所)付近は現在は空壕となっているが、明治時代中期の銅版画や大正時代初期の写真等を見ると、水が湛えられていることがわかる。
また、現存はしていないが終戦直後まで完全に残っていた本丸の濠は、北西の隅から水が湧いており、冬に凍結するとスケートができた、という話や、最後まで残っていた本丸南側の濠でも改変される前までは、季節によっては濠底に水が溜まることもあったこと、などから、水の全くない濠ではなかったと考えられる。
なお、濠の幅については、土塁の規模と同様わからない点が多いが、一ヵ所だけ濠幅が明らかになっている所がある。『改変伺』や『鳥居藩諸控』に「同所(本丸)橋長サ七間弐尺八寸」というように、本丸表門前の橋について記されている。1間=1.82mで計算すると約13mとなり遺構の濠幅にも近い。
③横矢
塁を屈曲させて死角を少なくして、敵に有効な打撃を与えるために工夫されたのが「横矢」である。塁の中間や虎口の脇等によく見られる。
壬生城の場合、鋭角的な部分や屈曲は少なく、直線やゆるやかな曲線を描いている所が多く、鋭角的な屈曲等は、本丸、二の丸の一部、東郭に見られるのみである。鋭角的な屈曲のすべてが横矢とは限らないが、上に挙げた場所は横矢を考えているとみて差支えないだろう。
このうち、前で触れた「馬出」の付近は圧巻であると言える。馬出に対して迫り出すように築かれた東郭の土塁上からは、城内への侵入を試みて馬出の南北の入口に押し寄せる敵に対して、前方だけでなく、側方や後方からも攻撃できる構造になっており、壬生城の馬出は、横矢の点から見ても完成度の高いものであったと言える。