(1)門

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 壬生城の門については『複製図』によると、「櫓門2ヵ所、平門5ヵ所」となっている。壬生城の虎口は前述のように10ヵ所あることから、3ヵ所には何も建てられていないことになる。絵図を見る限りでは、「6中門」と下台郭の2ヵ所の虎口がその3ヵ所になっている。
 これらについて、他の絵図や史料を見ると、「6中門」と「10足軽町口」の2ヵ所については、“木戸”のようなものがあったようで、全く何もない虎口は、「9四谷出口」だけ、ということになる。
 
①木戸
 先ず「6中門」であるが、中門については“Ⅱ-2(5)壬生城の改修”で触れているとおり、寛延4年の段階では「是ハ中御門扉屋袮板入用」というように、門扉と屋根があったことが窺える。
 また、寛延4年(1751)の史料に「36年以前に中門焼失」という記事もあり、何らかの建物があったことは間違いないが『複製図』の段階では、建物が失われていたらしく何も描かれていないが、他の史料では、門柱らしい柱が2本だけ描かれている絵図が見られる。
 次に「10足軽町口」について見ると、『壬生領史略』には門柱らしい柱が2本建っているのが見られる。
 このように「6中門」と「10足軽町口」は、ともに門柱だけで門扉の見られない、簡単な構造であり、その構造から木戸であったと考えられる。
 なお、何も建物が見られない「9四谷出口」についても、江戸時代初期には「法清(豊栖)院前木戸」という名称で、木戸があったことが史料に見られる。江戸時代中期以降に何らかの理由から、取り払われたものと考えられる。
 
②平門
 『複製図』の注記部分では、「平門5ヵ所」として挙げられており、絵図本体の方にも平屋建ての門が描かれている。「1本丸門」「2新虎口」「3二の丸門」「4巽門」「7搦手門」の5ヵ所に見られるが、門の形式や規模などついては、同図からは明らかにできない。
 門の形式や規模については、次のような記録が見られる。
 先ず『御成控帳』では、門の規模について「本丸表門」「二の丸表門」の2ヵ所について記されている。その内容は次のようになっている。
   ・本丸表門  桁行4間  梁間2間  8坪
   ・二の丸表門  桁行2間半  梁間7尺  くくり(潜り戸)共ニ
 次に、城主としては6家目に当る加藤家に伝えられた『本丸指図』には、下図のように2ヵ所の門が描かれている。
 
図-6 本丸指図にみる門

 左側が本丸の南側に、右側が東側に位置する門で、「御門」とのみ記されている。
 これらの門の規模について柱間でみると、南側の門が間口3間・奥行1間、東側の門が間口2間・奥行1間となっている。この『本丸指図』をよく見ると、ケガキのようなもので方眼が組まれている。方眼は2.4cm間隔で引かれ、実寸では1間四方と考えられることから、それぞれ南側の門は間口4間・奥行2間、東側の門は間口2間・奥行1間半と考えられる。
 またこれらの門の形式は、柱の並び方から見て、南側が薬医門か長屋門、東側が高麗門と推定され、柱の様子からどちらの門も、向って左側に潜り戸が設けられていたと考えられる。
 以上の2点については、史料の伝来の状況から江戸時代中期以前の様子と考えられるが、江戸時代後期は、次のようになっている。
   「同所(本丸)表門 梁間壱丈 桁行四間 同所北方門 梁間八尺五寸 □弐間」
 これは『改変伺』や『鳥居藩諸控』に記されているが、これ以上のことはわからない。上に示した3点の史料のうち、本丸表門についてはいずれの史料にも記されている。その内容をまとめてみると次のようになる。
『日光御成控帳』と『本丸指図』に記された内容ついては、桁行・梁間ともに同じであることから、同一の建物と考えられる。 これに対して『補修伺図』等との比較では梁間が2間(12尺)と1丈(10尺)というように、若干の差がある。
 この2尺の差がそのまま違う建物を示しているのか誤差なのか、これだけではわからない。
 以上が史料に見る“平門”と記されている平屋建ての門についての規模や形式であるが、本丸以外についてはほとんどわからない、というのが現状である。
 なお『複製図』の注記部分には見られないが、追手門前の馬出にも南北のそれぞれに門があった。『壬生領史略』により確認できるもので、寸法は不明であるが、描かれている姿から、門の形式は「棟門」と考えられる。
 
桁行(間口)梁間(奥行)備考
日光御成控帳4間2間8坪
本丸指図4間2間薬医門か長屋門
補修伺図等4間1丈1丈=10尺
表-8 本丸門の規模

③櫓門
 『複製図』には、「櫓門二ヵ所」との注記があり、絵図の中では追手門と南追手門の2ヵ所に二階建の門が描かれている。この2ヵ所の門については、『壬生領史略』にさし絵として描かれており、門のおおよその姿がわかる。
 櫓門の形式には、塁と塁の間に二階建の門を造ったタイプと、2つの塁をまたいで櫓を造り塁間を門としたタイプの2つがあるが、『壬生領史略』のさし絵に見る壬生城の櫓門は、前者のタイプとなっている。次にこの絵をもとに門の姿を描いてみよう。
ア 追手門
  門の左前方から、やや見下ろした姿で描かれている。
  (ア)下層
  ・間口は柱間で5間、奥行は同じく2間である。
  ・中央の1間には大扉、その両脇の1間づつは潜り戸になっている。
  (イ)上層
  ・間口・奥行とも、下層とほぼ同じ大きさである。
  ・窓は正面に5ヵ所、側面に2ヵ所ある。
  ・窓の上には長押の型を見せている。
  ・壁については、彩色などが見られないことから、漆喰による塗籠と見られる。
  (ウ)屋根
  ・屋根の構造は「入母屋造り」になっている。
  ・屋根はねずみ色で塗られていることから、「瓦葺き」と考えられる。
  ・屋根の最上部、大棟の両端には「鯱」が見られる。
 追手門の特徴は上のようになっている。
  このうち屋根瓦については、『改変伺図』には、「大手御門屋根松平右京亮様御紋有之」と記されており、“Ⅱ2-(5)②城の改造”で触れたように追手門を建てたとされる松平家の家紋がつけられた瓦が、江戸時代後期(文化5年:1808)に存在していたことがわかる。
 なお、この絵に描かれている「鯱」との伝承のある鯱が、壬生町立歴史民俗資料館に展示されているものである。昭和20年頃までは、一対が残っていたというが、その後散逸して現在では片方の一部分が残るに過ぎない。(展示されている鯱は、残存していた部分を基に復元したものである)
イ 南追手門
 門の右前方から、やや見下ろした姿で描かれている。
 (ア)下層
 ・間口は柱間で4間、奥行はさし絵からはわからない。
 ・向って左側から2間目に門扉があったようで、一段高く冠木が描かれている。
 ・扉の右側は柱間2間であるが、絵を見る限りでは、柱間1間になっている扉の左側と、同じ幅のように見られる。
 ・右端には井桁模様が見られる。これは番所の窓と考えられる。
 (イ)上層
 ・正面・側面ともに何も描かれていないため、窓の配置などは不明である。
 (ウ)屋根
  ・屋根の種類は「入母屋造り」になっている。
  ・屋根は「瓦葺き」と考えられる。
  ・大棟両端の「鬼瓦」の部分が、特に強調されて描かれている。
 
 南追手門について『壬生領史略』では、「三浦家城主たりし時大手御門と云。今に御櫓の鬼瓦丸に三引の瓦存せり」と記しており、さし絵で鬼瓦が強調されている理由が明らかにされている。また同時に、以前の城主の家紋の入った瓦が残っているということから、この櫓門が三浦家により創建あるいは改築を施されたことが窺える。一つの可能性としては、承応2年の火災による再建が考えられるが、三浦家時代の姿で幕末まで伝えられていたことは確かであると考えられる。