(4)番所

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 番所は、城内の警備や城への出入りを監視する拠点として城内各所に置かれていた。番所については江戸時代初期と中期以降に分けて見ていきたい。
 
①初期の状況
 『野州壬生御宿城一件』によると、城内には下の表(表-11)のような番所があったことが記されている。この史料自体が将軍の宿城に際しての記録であるため、宿城の時だけ設けられた番所である、との考え方もあるが、社参中は幕府の警護を担当する者に明け渡し、社参後は返還されていることから、大半の番所は恒久的なものであったと考えられる。
 本丸については、〔表-13〕や〔図-10〕を見ても、数多くの番所があったことがわかる。とくに〔図-10〕からも明らかなように、本丸に建てられていた御殿の周囲に番所が配置されていた。
  また、二の丸を見ると、「門番所」というのが4ヶ所見られるが、二之丸門番所と新裏門番所が虎口の番所と考えられる。それでは、二之丸表門番所と二之丸臺所門番所はどこを指すのだろうか。二の丸については、本丸のような曲輪内の建物の配置がわかる史料がないため推定になるが、この2ヶ所の門は、二の丸御殿に関係する門と考えられることから、二の丸御殿が塀に囲まれ、少なくても2ヶ所に門が設けられていたことが考えられる。
 
番所名規模
梁間桁行
本丸本丸門番所
本丸裏門番所
本丸御臺所土戸口番所
本丸御従番所9尺8間
本丸御湯殿裏番所4尺1間
本丸奥御臺所口番所
二の丸二之丸門番所
新裏門番所9尺5間
二之丸表門番所
二之丸臺所番所
二之丸蔵前番所
二之丸鉄砲場番所1間1間
二之丸御箪笥蔵番所1間1間
二之丸下御厩裏番所
三の丸東中追手門番所
南追手門番所
裏門番所
東追手門
*(中門外曲輪=東郭)
表-11 江戸時代初期の番所

②中期以降の状況
 中期以降の状況については、番所について網羅的に記された史料が絵図以外に見られないため、下図(図-8)が現在明らかにできる状況である。
 この図は『複製図』を中心に何種類かの絵図を比較・対照させて図示したものである。下台郭を除いた各曲輪にある虎口の番所と二の丸の城米蔵前番所の計9ヵ所についてである。
 このうち「三御門」と称されていた、追手門・南追手門・搦手門の三ヶ所については、城外に面しているため、特に厳重に管理されていたことが『鳥居藩諸控』から窺える。
 また、『壬生城廃城凡覚書』には、門番の武士の数が記されており、下の表(表-12)のようになっている。各番所とも、上表に挙げた人数が一組となり、昼夜交替で詰めていたと記されている。
 なお、初期の状況で挙げた、本丸・二の丸内にあった虎口番所以外の番所については、中期以降の状況は明らかではない。
 
図-8 番所の位置(江戸時代中期以降)

 
 
大手門番所知行取1人給人扶持取1人(上番)
御持筒1人 (中番)
足軽 1人小使1人(下番)
南大手門番所御持筒1人足軽1人
搦手門番所御持筒1人足軽1人
表-12 門番の構成