(1)御殿

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図-9 居住用建物の所在

 壬生城の御殿は、本丸と二の丸にあった。御殿については、壬生町立歴史民俗資料館の第7回企画展図録「壬生城」の中で、『御殿并城内坪数間数』(『野州壬生御宿城一件』)と『壬生城本丸指図』により、若干の考察をしている。ここでは、その成果を基に簡単に触れておきたい。
 
①本丸御殿
 『複製図』を始め現存する壬生城絵図の本丸は、番所と三社(次項で触れる)以外、何もなかったように何も描かれていないが、上記の史料により御殿の存在が確認されている。
ア 歴史
 本丸御殿は「日根野織部正様、阿部豊後守様代ゟ有来り」というように、建てられた年月は明らかではないが、江戸時代の初めから存在していた。
 承応2年の壬生城大火で焼失し、万治2年に再建されている。その間、寛永17年・慶安元年そして寛文3年に将軍が宿泊したことは確認できるが、その後についてはほとんど史料に表れない。
 わずかに、三浦家と松平家との間で壬生城の受け渡しが行われた際の史料に、
  「一、御城破損繕共随分軽可仕候由・・併御本丸屋根塀等見苦無之様ニ繕申付(後略)」
とあるように、営繕の場所として“御本丸屋根”が挙げられ、受け渡しのために、御本丸・二の丸にある番所以外の家作については、畳・襖ほか建具類の数を貼り出しておくように通知がでている。
 また『改変伺図』に付された壬生城の覚書や『鳥居藩諸控』など数点の史料には、本丸に「御屋形 五百六拾三坪」と記されており、文化年間頃までは存在していたらしいことが窺える。
イ 規模
 本丸御殿の規模は、563坪で920畳敷の建物であった。広大さを示す言葉に「千畳敷」という言葉があるが、まさに千畳敷の建物であり、本丸の坪数が1,680坪であるから、その1/3は御殿によって占められていた。
 下の図(図-10)のように、御殿は本丸の中央に建てられている。
 御殿は大部分が平屋建てで、二階建になっている所は「二階有」とわざわざ記されている。〔表‐13〕にもあるように二階のある所は、57惣振舞所から69釜屋にかけての部分である。
ウ 構成
 図-10からもわかるように、御殿の平面構成は大変複雑に部屋が入り組んでいるが、少し整理すると、図-11のようになる。
 手前から奥、方角で言えば南東から北西方向に「イ.玄関」「ロ.書院」「ハ.御殿」が雁行して並び、これらの東方にある「タ.御臺所」との間に、廊下や縁で結ばれた様々な部屋が設けられた主屋に、何棟かの建物が付されている。
エ 特徴
 この御殿は、部屋の名称を見ていくと、「ロ.書院」と「ハ.御殿」との間が「御成廊下」となっていたり、御老中之間・若御老中(若年寄)衆部屋など、壬生藩の職制には見られない役職名が付けられた部屋が並んでいる。その代わりに、御用部屋や役人の詰所といった藩政を行ううえで欠かせない部屋が無に等しい。
 また、「煮立」「料理」といった食事に関する部屋が多い割には、表向きの部屋ばかりで奥向きの部屋が見られない。
オ 性格
 この御殿の性格を一口で言えば、将軍の旅館として建てられていたと考えられる。この考え方を裏付けるものとして、上に挙げた特徴の他、『城内間数』には、次のような記載がある。
  「右御殿前々よ里御成以後者、御縁庇其他取附候所ニ取放差置、御成被仰出候節取附、塀其外新鋪仕候ニ付、當分茂大形御本屋計差置、端々所々破損取繕不申候」
 このように将軍の御成の後は、本屋だけにして放って置かれた、つまり、藩主の御殿や藩の政治を行う場所としては使われていなかったことが明記されているのである。
 
表-13 本丸御殿部屋割対照表

 
図-10 本丸御殿の平面構成
図-11 本丸御殿の構成

 
②二の丸御殿(居宅)
 二の丸の御殿は、『城内間数』では「二ノ曲輪家」、『複製図』等壬生城の絵図では「二の丸居宅」と記されているが、その場所は二の丸南西隅にあった。
 規模としては、175坪余であり 本丸御殿の1/3である。
 二の丸御殿については、本丸御殿のような平面図が残存しないため、部屋の位置関係は明らかではないが、『城内間数』によると、御殿の構成は、下の表〔表-14〕のようになっている。
 「居間」「寝間」というように、この御殿が家あるいは居宅と記されているように、城主の私的な御殿という意味合いが強いため、藩政の場はもちろん、ここでも奥向きと見られる部屋は見られない。
 また幕末になって、この御殿の北側に部屋を2棟建設している記録がある。
 「殿様御入部之儀、當秋被為入趣、右ニ付御入之節御供方御近習其他江戸部屋二棟、御殿裏北の方へ御普請有之候」
というように、藩主のお国入りによる近習等お供の人数を収容するために建設されたことがわかるが、規模・間取等一切不明である
 二の丸御殿については、江戸時代を通じて藩主の居宅として存在していたようだが、史料が少なく不明な点が多い。
 
名称桁行梁間坪数推定畳数備考
2.5(7尺)くくり(潜り)共.
腰懸(5尺)4.0二ノ曲輪門南.
番所1.02.0(2.0)同所(二ノ曲輪門)北
鎗之間3.56.522.839
御玄関之式臺内2.0
南之縁頬1.03.5
0.52.5北にあり.
廊下5.7512
同所(鎗之間)西之座敷3.014.033.066
上之間(3)4.012.024
次之間21.042
時計之間3.09.027.054
居間3.04.012.024
同(居間)西之方3.04.012.024
寝間5.0床共ニ.
納戸3.06
縁頬4.08
風呂屋2.58.020.0何も土地.
小風呂7.5板敷共ニ.
上り場7.5床共ニ.
釜屋5.0
釜屋西方下屋0.53.0
肴部屋2.03.06.012今ハ表納戸二成ル.
料理之間3.07.021.0東方押通膳棚有.
6.012
拭板7.5
板之間・圍爐裏
廊下10.521四所合.
臺所・釜屋2.55.010.5土地.
 
食盛所2.02.55.0
北之長屋2.520.050.0
部屋2.04.08.0
米蔵2.59.022.5
土蔵2.57.0二階有.
(『御殿并城内坪数間数』)
表-14 二の丸御殿の部屋割

 
③その他の屋敷
 『城内間数』によれば、三の丸北西隅に茶屋屋敷、南東部に風呂屋屋敷、正念寺曲輪に正念寺屋敷と記されている。このうち、三の丸の2つについては『複製図』の方にも見られ、茶屋屋敷については、別の絵図には、池のようなものが描かれていることから「遊び」のための屋敷と考えられる。
 一方、三の丸風呂屋については、名称が見られる以外、皆目わからない。享保3年調とある絵図では「侍屋館」となっており、風呂屋の名称は見られないことから、これ以前に廃されたものと考えられる。
 また、正念寺屋敷については、1,282坪の規模であったこと以外、全く不明である。