江戸時代初期には、武家屋敷のうち足軽町が城下町の南北にあり、搦手門外にも見られたが、中期以降は幕末まで、四谷出口の外に数軒(『複製図』では4軒)あるほかは、すべて曲輪の中に配置されていた。
『複製図』には、三の丸と東郭に「侍屋敷」、下台郭に「足軽小屋」「小役人屋敷」とあり、上級武士は三の丸と東郭、下級武士は下台郭というように配置されていたことがわかる。
ア 三の丸
『複製図』では27の区画に分かれている。ここに描かれている屋敷割は、地籍図と比較しても一致する所が多い。
『城内間数』に記された三の丸には、各屋敷の坪数と考えられる数字が羅列されている。これら坪数ごとの分布を示したのが、下の表〔表-15〕である。最小の171坪から最大の2,710坪まで、全部で41区画ある。
このうち、区画の数では、400~500坪の10区画、次いで210~300坪の8区画となるが、平均すると596坪余となる。
先に挙げた『複製図』と『城内間数』とでは、14区画もの差があり、城下町だけでなく城内の屋敷割についても変更が加えられていることが窺える。
坪数の範囲 | 軒数 |
2,000~ | 1 |
1,000~ | 1 |
900 ~1,000 | 1 |
800 ~ 900 | 1 |
700 ~ 800 | 6 |
600 ~ 700 | 5 |
500 ~ 600 | 4 |
400 ~ 500 | 10 |
300 ~ 400 | 1 |
200 ~ 300 | 8 |
~ 200 | 1 |
合 計 | 41 |
表-15 武家屋敷の坪数 | |
イ 東郭
『複製図』では、追手門から中門を結ぶ道よりも北側に「侍屋敷」、南側には「臺所屋敷」と記されている。
この点を他の絵図で見ると、北側の侍屋敷は同じであるが、南側は『複製図』よりもさらに細分化されて「長屋」と記されている。この辺りの小字名は「新長屋」といい、東郭の歴史を裏付けている。
ウ 下台郭
『複製図』には「足軽小屋」と「小役人屋敷」が見られる。このうち「足軽小屋」は東西に細長い一つの区画として描かれているが、他の絵図や記録によると、実際にはもっと細かく分けられていたらしい。大きく南北に二分され、南側を「表長屋」、北側を「裏長屋」と称していた。
幕末になると、表長屋の南側にも長屋が建設されている。この長屋は、下台郭内にはあるが「給人」という言葉が見られることから、足軽というよりは、中級以上の武士の長屋であったと考えられる。
②侍屋敷
侍屋敷については、『壬生領史略』の挿し絵により、屋敷は塀で仕切られ入口には門があったことがわかるだけで、細部についてはわからない。
現在明らかにできる内容としては、三の丸にあったと考えられる松本五郎兵衛が屋敷を拝領した時の『屋敷渡帳』によって、部屋の名称と広さ、畳、建具の種類・数等がわかり、下表〔表-16〕のようになっている。
この屋敷は、全部で6部屋と臺所から成っているが、このうち奥次之間、臺所については広さが記されておらず不明であるが、わかっている部分が36畳(18坪)であるから、不明な2ヶ所を考えても30坪余の屋敷であったことになる。これが広いのか狭いのかについては、松本五郎兵衛の録高や家族等の構成、他の藩士の屋敷がどうだったのかなど、不明な点が多く一概には言えないが、現代の住宅と比較すると、狭い方ではないと言えよう。
床材材質 | 広さ | 襖 | 板戸 | 障子 | 敷居鴨居 | 小襖 | 押入 | 床 | 莚 | 張窓 | |
表座敷 | 畳① | 8畳 | 4 | 2 | 2 | - | 4 | 1 | 1 | - | - |
同次之間 | 畳② | 8畳 | 2 | 2 | 2 | - | - | - | - | - | - |
玄関之間 | 畳③ | 6畳 | - | 6 | 2 | - | - | - | - | - | - |
奥之間 | 畳④ | 8畳 | 2 | 4 | 2 | 3 | 2 | 1 | - | - | - |
同次之間 | ? | ? | - | - | - | 4 | - | 2 | - | - | - |
茶之間 | 畳④ | 6畳 | - | 3 | 1 | - | - | - | - | - | - |
臺所 | ? | ? | - | 5 | 1 | - | - | - | - | 10 | 3 |
湯殿 | ? | ? | - | 1 | - | - | - | - | - | - | - |
雪隠2ヵ所 | ? | ? | - | 3 | - | - | - | - | - | - | - |
他に*表門1ヶ所.*下雪隠1ヶ所. | |||||||||||
*畳①:琉久(球)表縁付新床.畳②:琉久(球)表縁附古床表替. | |||||||||||
畳③:琉久(球)表縁附古物.畳④:琉久(球)表縁無古物. | |||||||||||
表-16 松本五郎兵衛家の部屋割 |
③長屋
長屋については、東郭の南部と下台郭に建てられていた。『壬生領史略』にある「大手御門広小路之眞景 其二」には、足軽町門内に長屋と思われる建物が一棟見られる。建物の前面には板塀と見られるものがあり、4ヵ所で途切れていることから、4軒の入る長屋であったことが考えられる。
また、慶応3年(1867)の火事の記録から、裏長屋の東方2棟については、一棟に7軒が入る長屋であったことがわかっている。
これらの長屋は、足軽などの下級武士の長屋と考えられるが、その間取等詳しいことは全くわからない。
幕末から明治にかけて、下台郭を中心に中級以上の藩士が入る長屋が建設されていることは、既に何度か触れている。そのうち、豊栖院東側から足軽町門にかけて建てられた長屋のうち、豊柄院に近い2棟については詳しい史料が残っており、規模はもちろん平面構成や使われた木材の種類・寸法までが明らかになっている。ここでは、規模と平面構成を示してみよう。
前項の侍屋敷と比較すると、かなり狭いものであったことがわかる。