(1)役所

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 藩の行政を行う所、すなわち藩庁については、現代の役場庁舎のような建物を思い浮かべるが、江戸時代では、城内の御殿にその機能が置かれることが多かった。しかし壬生城の場合、先に見てきたように本丸・二の丸、ともに御殿に藩庁の機能は見られない。
 
①御用所
 『城代日記』には、「御用所」というものが出てくる。江戸から帰着、あるいは江戸へ出立する者が、月番御用人・月番御目付同席の下「於御用所 謁」して、ここで江戸での報告や江戸屋敷の年寄への伝言を伝えていることが見られる。
 また『鳥居藩諸控』には、平日は登城ののち御用所に出席。一同退席の後、月番御用人から関係する役人への申し渡しや各役人からの上申が行われていることが記されているし、御用所には「御用所物書」や「御用所小間仕」が置かれていることを見ても、藩政を行ううえで中心的な場所であったことが窺える。
 しかし、その場所については記載がない。二の丸御殿(居宅)が最も可能性が高いが、江戸時代初期の部屋割には見られず、中期以降の部屋割を示す史料がないため、今のところ場所は不明である。
 
②会所
 一方『城代日記』には、「会所」というものも見られる。
 「今朝左之通、於会所誓詞有之、小嶋左仲致出席候」として、役替えにより新しい役に就いた者が誓詞を差出すことが行われ、「物頭 中村縫殿右衛門 町奉行 松本茂右衛門 本道 千葉 茶庵」の3人が、会所において誓詞を差出していることが記されている。
 会所については『郡奉行日記』にも見られる。ここには、下皆川村(現.大平町下皆川)での質地請返しによるトラブルの吟味や、磯村(現.鹿沼市磯)で御蔵米が焼失した際の蔵番の手錠を赦免することを申渡す場としても「会所」が使われていたことが記されている。
 「会所」は、『複製図』には見られないものの、別の絵図には「会所」が記されており、三の丸中門の北側にあったことがわかる。
 
③作事役所
 先に見た蔵・小屋の所で「舂屋郭」に存在していたことがわかる。会所と同様『複製図』に見ることはできないが、別の絵図に三の丸東部に「普請小屋」と見られる部分にあったことが考えられる
 作事とは建築のことを言い、普請とは土木のことを言うので厳密には別物であるが、混同されることも多いことから、作事役所と普請小屋は同じものを指すと考えられる。
 
④御舂屋
 御舂屋とは、米をつく所、今で言う精米所である。こちらは『複製図』で三の丸東部の北東隅に「蔵屋敷」と記されている所と考えられる。絵図によっては「御舂屋」と記しているものもある。
 
⑤町奉行所
 城下町(表町・通町)と飯塚町(現.小山市飯塚)を「三町」といい、この三町を支配するのが町奉行であった。
 その役所が東郭にあったが、『複製図』でみることはできない。『見聞控帳』や他の絵図により位置がわかったものである。
 
⑥郡奉行所
 三町以外の藩領の村々を支配したのが、この郡奉行である。所在等は、⑤町奉行所と同じである。
 
 以上が現在明らかにできる役所の所在であり、その位置を示したのが、下の図〔図-13〕である。
 このうち、『複製図』の蔵屋敷の位置に、普請小屋と記されている絵図が多い。比較的新しい絵図に多く見られる。これについては舂屋郭の北東隅に普請小屋、その南に御舂屋と記している絵図があることから、下の図〔図-13〕のように考えた。
 なお、役所という範疇からは外れるためここでは挙げなかったが、三の丸南部(南追手門から中門にかけて)は、家老を始め年寄・用人といった藩の重職に就いている者の屋敷があったことが、幾つかの絵図で確認できる。
 また、東郭の町・郡奉行の屋敷であるが、ここは役屋敷であり、それぞれの奉行職にある時はここに入り、役を離れると他所へ移っていく。町奉行や郡奉行になる者は、上級の武士であったため、三の丸北~西部、つまり北條・西條に屋敷替になっている。
この屋敷替について、先に示した『城代日記』に出ている松本茂右衛門の場合は、拝領した屋敷が「町奉行屋敷」と明記されており、役屋敷であることが確認できる。
 「御用所」の存在の確認はできていないが、三の丸・東郭に諸役所が存在していたことがわかった。
 
図-13 諸役所の位置