(2)藩校

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 藩によって建てられた学校を藩校(あるいは藩学)という。壬生藩の藩校は「学習館」という名称であった。藩校としての創立は古く、正徳3年(1713)鳥居忠英により設立され、県内では最も早く、また全国的に見ても早い方と言える。
 忠英の設置した藩校については、明治初年に壬生藩の学制について報告がなされた時、すでに史料が失われていて詳細は不明となっている。『旧壬生藩学制沿革取調要目』と題された史料からは藩校の設置にあたっては、当時の家老高須弥助便次の助力があったこと、学問の中心を「古学」に置いたこと、などがわかるくらいである。
 したがって、藩校の置かれた場所についても「二ノ丸門外北側堀端」にあったことがわかるだけである。『複製図』には藩校を示すものは何も描かれていないが、他の絵図を見ると「学問所・稽古所」と記されている。その場所は「風呂屋屋敷」の位置になる。
 藩校はその後2度にわたって制度の改革が行われており、藩校学習館の歴史は3期に分けることができる。第一期を忠英による創立とすると、第二期は鳥居忠挙による大改革からになる。学習館という名称になるのも、古学を朱子学に改めたのも、この忠挙の改革によるものである。寛政2年(1790)には、老中松平定信により朱子学以外の学問が禁じられ(寛政異学の禁)、多くの藩校ではすぐに朱子学に改めたが、壬生藩は、はるか50年も後になってからである。
 第二期では、藩士の子弟(男子)は8歳になると学習館への入学が義務付けられ、教授陣や教科についても充実が図られている。生徒は300余名を数え、水戸や笠間といった他藩からも入学する者がいて、寄宿生が50名ほどもいたとされている。このような隆盛ぶりから「二ノ丸門外北側堀端」では手狭となり移転している。移転先は「同門(二ノ丸門)前南側」となっている。
 その時期については、その後とだけ記された史料は多いが、時期を明確に示す史料はほとんど見られない。唯一時期が記されているのが、次の史料である。
「明治二己巳年春 中根律衛様御居宅御取拂ニ相成、此跡ニ諸稽古場御普請有之、尤槍釼はしめ学講共不残之稽古場也」  (『壬生御屋敷御長屋新建御普請其外見聞扣』)
として「コ」の字形に建物の概略が描かれている。
 この明治2年は、鳥居忠文が藩政改革をした際、その一環として学習館も改革され、これ以降が第三期となる。『旧壬生藩学制沿革取調要目』による学習館の規模等は、次のようになっている。
「學習館構内地坪六百四拾五坪。建坪百五拾三坪 瓦葺、二階二十八坪。板蔵十八坪。文庫 銅 屋根 六坪 二丸中ニ在」
 また、この建物のものと思われる平面図が残されており、下図〔図-14〕のようになっている。今回は、学習館の位置を示すためであるので略図にしてあるが、実際は壁や間仕切り・建具の種類なども記されている。
 この図によると、学習館の位置は、三の丸中門を入った左手にあり、北は中門から三の丸内に延びる道路、南は三の丸南緑の土手際までを占め、校舎は敷地のやや北西寄りに建てられ、南側の空間は「南庭」と記されている。
 南側が学問所、北側が武道場で両者をつなぐ渡り廊下の部分には「昇降口」があり、生徒用、教官用のほか、式台のある藩主・重臣用の昇降口もあった。この2階は「寄宿所」と記されている。
 なお、『旧壬生藩学制沿革取調要目』によると、敷地坪数は645坪であるが、この平面図では「学校構内七百四十九坪であり、若干の差が見られる。
 この学習館も、廃藩置県後は壬生県に移管されたのち閉鎖となったが、その地は「壬生学舎」を経て「壬生小学校」へと受け継がれている。
 
図-14 学習館(移転後)