(3)城内の社寺

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①精忠神社
 精忠神社は、鳥居家中興の祖、鳥居元忠を祀る社である。初め二の丸の西北隅に建てられたが 寛政11年(1799)「精忠霊神」の号を受けたことにより、本丸の北東隅に遷している。その経過を物語る史料には、
「寛政十一未年八月廿八日御神躰御勧請、精忠霊神ト号之、壬生御本丸御宮造立之」
と記されている。
 嘉永2年(1849)元忠の250年忌を期に、再び二の丸西北の隅(史料によっては二の丸帯郭内)に遷し、現在に至っている。
 『壬生領史略』には、嘉永の創建当時の姿が描かれているが、現在の姿と対比させてもほとんど変化がない。唐門の両側に延びる板塀の附き方と門前の橋がないこと、が大きな違いである。これは、明治5年(1872)に神社の改修と濠の埋め立て(『御霊社御普請ニ堀埋御入用調』)が行われたことによる。
 なお『複製図』には、本丸・二の丸のいずれにも精忠神社、当時の言い方で言えば「御霊社」は記されていない。“Ⅱ-1(3)第三期鳥居氏の時代”でも触れているように、鳥居家廃絶の危機を何度も救っている鳥居家としては忘れることのできない元忠を祀る精忠神社を、これだけ細かい書き込みのある「複製図」が何も記していない、ということから、作成年不詳の『複製図』の年代を推定する一つの手掛りとなろう。(検証については、後で触れてみたい。)
 また、他にも精忠神社が記されていない絵図は多いが、安政年中の図とされる絵図には、「御霊社」と見ることができる。
 
②本丸三社
 『複製図』の本丸北西隅に「三社」と記されている。この三社については、ほとんどの絵図にも三社あるいは鳥居の絵が記されている。
 『壬生領史略』によると、この三社は「左 稲荷 中 八幡 右 日光権現」であり、「毎月十五日物頭役御代参相勤、御初穂青銅一貫文相納、正五九の三ヵ月は弍貫文(中略)御別当興生寺法楽修業す」とあるほか、『明細帳』にも「本丸三社 御祭礼霜月十五日 従興生寺相勤申候」とあり、11月15日が祭礼の日で興生寺が別当として月々の行事を行っていたことがわかる。
 なお本によっては、絵図に精忠神社を示すものがないため、この本丸三社を示す鳥居の印からここを精忠神社としているが、これは明らかな間違いである。
 
③東郭三社
 『複製図』には、東郭のほぼ中央やや中門寄りの所に「神明」、『明細帳』には「御台所 神明 稲荷」、と記されているもので、『壬生領史略』には「左 神明 中 稲荷 右 秋葉、三社中央にして中御門の外ニ有」と記されている。
 このように史料によって社の数が異なっている。神明一社が時代とともに三社に増えたのか、もともと三社あったのを記さなかったのかわからないが、幕末には三社であったことは明確である。東郭三社の祭礼・代参等は、正五九月の初穂料が一貫文である以外は、本丸三社と同じであった。
 
④長源寺
 長源寺については、『壬生領史略』に「禅宗 渕室山長源寺 寺領百石 鳥居家代々御位牌所なり(中略)壬生長源寺は陸奥国磐城郡平禅宗渕室山長源寺末寺にして、御先代忠政公平城主 たりし時、二代将軍より忠政の父元忠の忠死を御哀一寺御建立」というように、長源寺の由来が記されている。
 また「寛政重修諸家譜」にも次のように記されている。
「(慶長)十六年忠政がとき元忠がために所領岩城に一寺を建立し、法號をあらため渕室長源院と號す。これにより寺號も長源寺といふ。東照宮元忠が忠死をあはれみたまひ、寺領百石を寄せられ、台徳殿より御朱印を下さる。」
 これによると、長源寺の領地100石については、徳川家康のお声掛かりによって、2代将軍秀忠から朱印状を賜ったことになっている。同時に、長源寺の寺号が、改名後の元忠の法名に由来することも明らかになった。
 なお、元忠の法号は、浄土宗では「龍見院殿賀岳宗慶大居士」、禅宗では「清流院殿渕室長源大居士」となっている。
 長源寺の場所は、三の丸北西隅になるが、『複製図』には見ることはできない。精忠神社と同様、作成年推定の手掛りになるとみられるが、『複製図』では「茶屋屋敷」の部分が長源寺の場所ということになる。
 また長源寺の構造などは、『壬生領史略』の挿し絵により、簡単な門があったことがわかる以外に史料がなく不明である。
 このように長源寺は鳥居家の寺であったため、鳥居家が壬生城主でなくなったことにより長源寺も廃寺となり、現在は跡形もない。
 
図-15 城内の社寺