①田と畑
壬生城下周辺の農地について、先ず面積を見てみよう。『明細帳』には次のように記されている。
「表町 田1町7反余.畑174町5反余.通町 田 4町2反余.畑170町余.」
この差は、それぞれの生産高に表れている。『慶安郷帳』では、高2,121石余のうち、田が61石余・畑2,061石余であり、延享3年の『石高惣人数家数書上帳』では新田(畑)も含めて、田が99石・畑が3,089石余とある。さらに『宿村大概帳』にも「此宿田より畑多し」とあるように、畑の方が比較にならないくらい圧倒的に多かったことが記されている。
このことは『復元図』を見ても、画面のほとんどが「畑」の色分けになっていることからも見て取れよう。田については、黒川より西側には清水欠、東下台付近に少し見られるだけで、黒川の東では向田に見られるだけである。
なお土質については、「町方土之儀」として「田畑共ニ砂め成所、真土成所、色々御座候。色之儀者黒色黄色ニ御座候」というように、所によって差のあったことが記されている。
②産物
『明細帳』には「当町稲之外作物之品々」として、稲以外の作物が列記されている。
「大麦・小麦・小豆・小角豆・粟・稗・黍・牛房・大根・たはこ・蕪菜・芋・木綿・茄子・唐米(辛)子」
の以上15品のほか、別項に「木綿布 茶 何も少々出申候」というように、茶も産していたことが記されている。
また『宿村大概帳』には「五穀之外時々の野菜を作る」とあり、五穀(米・麦・粟・黍・豆)のほか季節の野菜を作っていたこと、「此宿 牛房 素麺 小豆等の産物有之」というように、牛房(蒡)や小豆のほか素麺等の産物があったことも記されている。
このうち素麺は、竹の子(筍)・牛房とともに、『明細帳』では将軍への献上品の一つとして挙げられ、「通町 彦左衛門 理右衛門 助右衛門 惣兵衛 長兵衛 右五人被仰付」というように、通町の5名の者から調達していたことが記されている。
なお『明細帳』には「当町よりは出不申候」として、「絹・紬・楮・漆・紅花・蝋」の6品が挙げられているが、その中に「小物成之次第」として俗に“七色の掛物”といわれる、「大麦・大豆・稗・真綿・麻苧・荏油・紅花」の7つの品々の中に、生産されないと明記されている「紅花」が入っているほか、「真綿・麻苧・荏油」についても生産物の中に見られず、代金で納められていたことが窺えるが、生産されていないものに税を掛けている理由については不明である。
また「干瓢」については、『明細帳』『宿村大概帳』ともに産物としては記されていないが、嘉永の頃と見られる史料には、「干瓢」の名がある。この史料は『壬生領史略』の巻末に付された題名のない、壬生藩領のうち都賀郡内の村々の産物について列記したものの中に、「壬生両町 米 大麦 小麦 大小豆 粟 稗 丘穂 芋 綿 麻 干瓢 藍 人参」というように、14の作物が挙げられている。この中には、正徳の『明細帳』には見られない綿と麻があり、150年間に生産が始められたようである。
③肥料
『明細帳』には、「当所之田地糞之儀ハ、干鰯 粉糠 油粕 焼酎粕等を仕申候」というように金肥といわれる肥料が使われていることが記されている。これらの品々は、別項の「当町商売物」に列挙されており、城下で売られていたことが確認できる。