田の用水としては、赤塚村(現.鹿沼市北赤塚)地内、当山の東に堰を造り、水を確保していたことが記されている。この用水は「尤此水五ヶ村之田場へ引申候、尤御城中御堀水ニも罷成、両町之田場へも引申候」(『明細帳』)というように、城下のほか5ヵ村の田にも引かれていたとあるこの村々がどこの村なのか明記されていない。
しかし他方で、この用水の堰補修の人足は、上郷の5ヵ村から出ることから、赤塚村から城下町までの間にある村と考えられる。
その証拠として、享保10年(1725)の七ッ石村の『明細帳』には、次のようにある。
「当山堰之儀、壬生御用水並赤塚 亀和田 上いなは 七つ石 四ヵ村御田地用水故(後略)」
ここには4ヵ村までしか記されていないが、もう1ヵ村については下稲葉村と考えられる。
なお『壬生領史略』の赤塚村を見ると、星の宮の項に麓を「壬生用水」が流れている様子が描かれており、この用水が壬生通に沿うように南下して、城下町の用水となっていたこと、「壬生御用水」と呼ばれていたことなどがわかる。
用水については、向田にもあり、両町の田にも分水されていたが、水口は藤井村で管理を行っていた。この水口は、黒川の増水でたびたび破損したが、修理は藤井村で行うものの、壬生藩から人足や竹木等の資材を提供することになっていた。