城下町の歴史については、“Ⅱ-3城下町について”で触れているが、宿としては触れていないので、簡単に見ておきたい。
城下町がいつ「宿」として成立したのか、具体的に示す記録はないが、元和2年冬から翌3年春にかけての日光東照社造営の際、資材や人の通行により壬生通が整備され、それに伴って壬生宿として整備が進められたものと考えられる。
このように、街道の整備と宿の整備とは表裏一体の関係にあるが、その柱となるのが公用通行のために設けられた伝馬制であり、物資の移動のための問屋による荷物の継立制であり、その負担の代償として土地の税が免除される「地子免許」が、宿成立の一つの目安と言われている。
壬生宿の場合『宿村大概帳』によると、地子免許は3,600坪であるが、時期については「但、地子免許之儀、前々より差免有之」というように、明確には示されていない。
一方『明細帳』では、次のように記されている。
「寛永十七庚辰年より、為御伝馬地子、両町本高之内片町ニて六石宛拾弐石分、御割付高之内御年貢之内ニ而被下候」
ここには、寛永17年から片町にて6石ずつ、つまり表・通町両町で12石分が年貢から差し引かれている、と記されている。
これについては、『明細帳』の「田畑上中下反別附分米并永荒引方等之覚」の項に、
「外、六石は庚辰年従御公儀様、御伝馬家地子として高被下候」 (表町)
「外、六石庚辰年御伝馬屋地子御赦免」 (通町)
と記されており、前記のことを裏付けている。
以上のことから、壬生宿は遅くとも寛永17年迄には、「宿」として成立していたと考えられる。