(3)宿の運営

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 宿としての運営は、下の表〔表-18〕のような役の人々によって運営されていた。
①問屋・問屋場
 問屋は、宿としての組織の頂点に位置するもので、表町と通町にそれぞれ1名ずつおり、問屋の屋敷を問屋場としていた。表町は上表町に通町は中通町に問屋場があった。
 問屋場は、表町と通町が10日交替で勤め、当番となった問屋場へは、問屋と年寄2名、帳附2名、馬差1名の6名が詰め、10日間問屋の仕事にあたっていた。
 このほか壬生宿で用意しておく人足や馬は、各々25名・匹ずつで、5名・匹が宿常備の人馬となっている。
 
②帳附才料
 帳附とは、人馬の出動状況を記録する役で、昼夜2名ずつ当番の問屋へ詰め、人馬の調達にあたっていた。
 
③伝馬役
 伝馬待番として、当番の問屋場に毎日、昼間は8名ずつ夜は2名ずつ詰め、急用あるいは臨時の通行に備えた。
 
④飛脚役
 飛脚番として、それぞれの問屋に詰めていた。通町問屋場へは昼夜3名ずつ、表町問屋場へは昼間2名、夜は上番・下番が2名の計4名が詰めており、両町合わせて昼は5名、夜は7名が待機していたことになる。
 日光から江戸への連絡の時は通町、江戸から日光への時は表町が飛脚番を勤めることになっていた。
 また、臨時の通行や壬生藩で急用が生じた時は、両町の問屋に待機していた者が御用を勤めることになっていた。
 
⑤人足役
 人足役は、宿内ではなく、在郷といわれる宿周辺の地域が勤めていた。表町分では、下馬木・西高野・今井・下台・藤葉に居住する者から83名、通町分では、先例によりとして下稲葉村地内になる釜ヶ渕から17名の計100名で勤めていた。
 
⑥御高札番
 宿高札は下通町にあった。『宿村大概帳』には、その文言のうち、正徳元年(1711)5月付けと天保9年(1838)9月付で出された運賃の定めが記されている。このため、高札は問屋の所管となっていて、城下町に火事があった時は、通町での火事の時は表町問屋、表町火事の時は通町問屋が指図して高札を外し、避難させる手筈になっていた。
 
⑦自身番
 飛脚役の者が順番に勤めていた。10月から翌年3月まで、両町とも2名ずつ昼夜巡回して、火の用心を呼び掛けるものであった。これは、主要な街道を管轄する道中奉行から、毎年通知があったと記されている。
 
役名人数計表町通町
①問屋211
②年寄1578
③中山道問屋321
④帳附才料291415
⑤伝馬役723240
⑥飛脚役1265472
⑦人足役1108317
⑧辻番役954154
⑨御高札番633
⑩自 身 番 役7
⑪在郷役541
⑫馬指412
表-18 宿役人の構成