一般の者が泊まる旅館、旅籠(はたご)については、正徳2年の『壬生表町・通町明細帳』には記されていないが、『宿村大概帳』には次のようにある。
「旅籠屋 拾軒 大弐軒 中五軒 小三軒」
壬生宿には、全部で10軒の旅籠があったことがわかるが、旅籠の屋号・所在地については記載がない。
現在、壬生宿の旅籠で屋号の明らかなものは、「紅葉屋」と「綿屋」の2軒だけである。その史料としては、次のような史料がある。
一つは『見聞控帳』にある伊勢屋火事の記録である。ここには、助谷村から出た類焼見舞いのリストが収録されており、金2分ずつを「通町下丁 郷宿 紅葉屋萬平 同 綿屋金之助」に渡していることが記されている。
また『見聞控之帳』には、当時の壬生藩主鳥居忠挙が、嘉永4年12月3日付で奏者番から西丸若年寄を仰せ付けられた際、翌5年2月に披露の祝宴が催され、その仕出しを担当したのが上の「紅葉屋」と「綿屋」であったことが記されている。領内の村々の者にも招待があり、表町・通町と上郷の者151人は2月25日、飯塚町と下郷の者は翌26日に実施されている。「八ツ時半頃於御本陣頂戴」というように本陣を会場に催されたことも記されている。
その際、2日目の飯塚町と下郷の者は、飲みすぎて「町宿泊り」になった者が多く、「紅葉屋」では、「郷宿初まりて以来無之」有様で大いに困ったことが記されている。
この紅葉屋と綿屋の場所については、『見聞控帳』に「通町下丁」とあるが、本陣の史料によると、紅葉屋は本陣の真向い、綿屋は紅葉屋の南側であることが確認でき、酔っ払いを担ぎ込むには格好の位置にあったことがわかる。
壬生宿の旅籠については、『宿村大概帳』が「大弐軒」と記している旅籠と考えられる、「紅葉屋」「綿屋」のほかは、明らかになっていない。