(6)助郷

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 「宿」には、公用通行に備えて人馬が用意されていたことは、“(3)宿の運営”で触れたが、参勤交代が制度化され公用通行が増大すると、一つの宿だけでは、次の宿まで荷物を運ぶ人馬を確保することが困難になっていた。当初は、人馬の不足する宿と村々との交渉によって人馬の応援を求めていたが、この方法では、宿と周辺の村とでは負担が大きく異なるため、紛争の火種にもなった。
 そこで幕府は、各宿ごとに不足の人馬を差出す村と、その負担の割合を指定した制度を設けた。
これが「助郷制」と言われるものであり、指定された村を「定助郷」といった。
 参勤交代に日光社参が加わり、より負担の大きい日光道中では、元禄9年に定助郷制が布かれ、壬生通も同時に実施されている。
 史料としては、この元禄9年5月付『日光海道壬生町助郷証文』と享保4年11月付『日光道壬生町助郷帳』、そして天保12年閏正月付『助郷御証文□写書上帳 書上候下帳」がある。これらは村数では24ヵ村で同じであるが、勤高(助郷の割合の石高)は、元禄時が、1万1,097石、享保時・天保時が1万1,125石と若干の違いがある。
 下の表と図は、助郷帳に記された村々をまとめ、その分布を示したものである。勤高の違いは、元禄の「15大橋村」が享保・天保では「23平柳村」に代わっているためであることがわかる。
 また、助郷は領主の別なく指定され、例幣使街道の西側にある現在の都賀町や西方町となっている村々も、はるか東方の壬生宿の助郷に指定されているなど、宿との距離に関係なく指定されていたことがわかり、助郷が村々の負担を増大させ、村が荒廃していく一因になっていったことを示している。
 
図-17 壬生宿助郷の村々

村 名現市町名勤 高支配の状況
元禄天保
1福和田村壬生町福和田216
2国谷村 〃 国 谷342
3藤井村 〃 藤 井669
4上稲葉村 〃 上稲葉605
5下稲葉村〃 下稲葉553
6細谷村石橋町細 谷175
7上台村 〃 上 台253××
8橋本村 〃 橋 本368
9箕輪村国分寺町箕輪210
10家中村都賀町家 中1,057
11平川村 〃 平 川222××
12原宿村 〃 原 宿636××
13東木村 〃  木401××
14富張村 〃 富 張1,014××
15大橋村 〃 大 橋420×
16大塚村栃木市大 塚675×
17癸生村 〃 癸 生411×
18柳原村 〃 柳 原117
19惣社村 〃 惣 社382
20国府村 〃 国 府297××
21大光寺村 〃 大光寺458
22田 村 〃 田 村246××
23平柳村 〃 平 柳450×
24下宿村西方町下 宿350××
25金井村 〃 金 井999××
(支配の状況:○~壬生藩領 △~相給 ×~他領)
表-21 助郷の村々