そこで幕府は、各宿ごとに不足の人馬を差出す村と、その負担の割合を指定した制度を設けた。
これが「助郷制」と言われるものであり、指定された村を「定助郷」といった。
参勤交代に日光社参が加わり、より負担の大きい日光道中では、元禄9年に定助郷制が布かれ、壬生通も同時に実施されている。
史料としては、この元禄9年5月付『日光海道壬生町助郷証文』と享保4年11月付『日光道壬生町助郷帳』、そして天保12年閏正月付『助郷御証文□写書上帳 書上候下帳」がある。これらは村数では24ヵ村で同じであるが、勤高(助郷の割合の石高)は、元禄時が、1万1,097石、享保時・天保時が1万1,125石と若干の違いがある。
下の表と図は、助郷帳に記された村々をまとめ、その分布を示したものである。勤高の違いは、元禄の「15大橋村」が享保・天保では「23平柳村」に代わっているためであることがわかる。
また、助郷は領主の別なく指定され、例幣使街道の西側にある現在の都賀町や西方町となっている村々も、はるか東方の壬生宿の助郷に指定されているなど、宿との距離に関係なく指定されていたことがわかり、助郷が村々の負担を増大させ、村が荒廃していく一因になっていったことを示している。
村 名 | 現市町名 | 勤 高 | 支配の状況 | |||
元禄 | 天保 | |||||
1 | 福和田村 | 壬生町 | 福和田 | 216 | ○ | ○ |
2 | 国谷村 | 〃 | 国 谷 | 342 | ○ | ○ |
3 | 藤井村 | 〃 | 藤 井 | 669 | ○ | ○ |
4 | 上稲葉村 | 〃 | 上稲葉 | 605 | ○ | ○ |
5 | 下稲葉村 | 〃 | 下稲葉 | 553 | ○ | ○ |
6 | 細谷村 | 石橋町 | 細 谷 | 175 | ○ | ○ |
7 | 上台村 | 〃 | 上 台 | 253 | × | × |
8 | 橋本村 | 〃 | 橋 本 | 368 | ○ | ○ |
9 | 箕輪村 | 国分寺町 | 箕輪 | 210 | ○ | ○ |
10 | 家中村 | 都賀町 | 家 中 | 1,057 | ○ | ○ |
11 | 平川村 | 〃 | 平 川 | 222 | × | × |
12 | 原宿村 | 〃 | 原 宿 | 636 | × | × |
13 | 東木村 | 〃 | 木 | 401 | × | × |
14 | 富張村 | 〃 | 富 張 | 1,014 | × | × |
15 | 大橋村 | 〃 | 大 橋 | 420 | × | - |
16 | 大塚村 | 栃木市 | 大 塚 | 675 | × | ○ |
17 | 癸生村 | 〃 | 癸 生 | 411 | × | ○ |
18 | 柳原村 | 〃 | 柳 原 | 117 | ○ | ○ |
19 | 惣社村 | 〃 | 惣 社 | 382 | ○ | ○ |
20 | 国府村 | 〃 | 国 府 | 297 | × | × |
21 | 大光寺村 | 〃 | 大光寺 | 458 | △ | △ |
22 | 田 村 | 〃 | 田 村 | 246 | × | × |
23 | 平柳村 | 〃 | 平 柳 | 450 | - | × |
24 | 下宿村 | 西方町 | 下 宿 | 350 | × | × |
25 | 金井村 | 〃 | 金 井 | 999 | × | × |
(支配の状況:○~壬生藩領 △~相給 ×~他領) | ||||||
表-21 助郷の村々 |