①城下への道
この壬生城下町の背骨ともいうべき壬生通のほかに、もう1本、主要な街道が城下町を通過している。例幣使街道の宿場町栃木と日光・奥州両街道の宿である城下町宇都宮を結ぶ「奥州中街道」である。南北に通る壬生通に対し奥州中街道は東西に通っており、城下町の建設にあたっては、この2本の主要な街道を城下町に取り込むことを計画したものと考えられる。
このほか、南東方向に藤井村から小金井宿を経て結城城下に至る街道や、北方には福和田・国谷・助谷といった、古くからの壬生藩領の村々に通じる福和田道、そして西高野・家中へ抜ける家中道などが城下町から分岐しており、城下町から四方八方に街道が通じていた。
なお城下町への入口としては、壬生通の南口として「江戸口」、北口として「日光口」があった。日光口については、別に「台宿口」の名もある。
また、奥州中街道については、宇都宮方面には「上河岸口」、栃木方面へは「今井坂口」があった。
これらのうち江戸口を除く3ヶ所については、古くは「町口番所」が置かれていたが、江戸時代中期までには失われていたらしく、『屋敷間尺数書上帳』には、日光口の内側に「御番所明地」が見られる。
表 町 | 通 町 | ||||||
町名 | 町の長さ | 道 幅 | 家数 | 町名 | 町の長さ | 道 幅 | 家数 |
表 町 | 7町18間半 | 7間半 | 113 | 通 町 | 12町10間半 | 7間半 | 165 |
通町 | 6町45間半 | 92 | |||||
新町 | 5町25間 | 73 | |||||
上横町 | 1町38間 | 4 間 | 19 | 船 町 | 2町26間 | 3 間 | 32 |
下横町 | 2町15間 | 6 間 | 30 | 横 町 | 2町20間 | 9 間 | 18 |
宇都宮街道 | - | - | 4 | ||||
表-22 城下町の規模 |
②町の構造
ア 町と在郷
城下町は、表町と通町の2町からなっており、それぞれ町通にある町と横町、そして在郷からなっていた。
町通の部分は、表町・通町とも北から南に、上・中・下の3町(新町は上・中の2町)に分かれている。
横町については、表町が上横町と下横町の2町。通町は船町・横町(搦手横町)の2町と宇都宮街道の部分から成っている。
在郷は、城下町の東方に宮下・下台、西方に今井・西高野、南方に下山・藤葉、北方に下馬木があった。このうち、今井・藤葉・下山は表町、宮下は通町に属し、西高野・下馬木・下台については、大半は表町であったが一部は通町に属している。
『復元図』に見るこれらの町の構造は、現代の町並と比較しても、一致することが見て取れる。
イ 規模
町の長さ・道幅などは、下の表[表-22]のようであった。
このうち、船町の道幅9間は、壬生通の道幅よりも1間半広くなっている。これは船町の先に中河岸・宮下河岸といった河岸が設けられていたため、荷物の運搬路として造られたためと考えられる。
③ 城下町の家数
家数について、現在明らかにできるのは、下の表[表-23]のようになる。左側の2点は、初期城下町の数値だが、比較のために示している。
こうしてみると、町の部分は変動が少ないことが見られる。とくに正徳2年(1712)から延享3年(1746)は34年間あるが、381軒で全く変動がない。
また「町屋鋪数 三百八拾壱軒」と記された年不詳の『複製図』とも同じである。
これに対し、在郷といわれる周辺地域の伸びが著しい。寛文頃と考えられる78軒が、正徳には 164軒へと倍以上に増えている。町の周辺で増加の傾向は現代の都市と同様の傾向を示し、興味深い。
九津見家文書 | 国会壬生城図 | 複製図 | 明細帳 | 家数等書 | 大概帳 | |
(寛文頃) | (年不詳) | (年不詳) | (正徳2) | (延享3) | (天保14) | |
表 町 | - | 165 | - | 162 | - | - |
通 町 | - | 222 | - | 219 | - | - |
計 | 407 | 377 | 381 | 381 | 381 | 429 |
西高野 | 23 | 24 | - | 42 | - | - |
下馬木 | 23 | - | - | 55 | - | - |
今 井 | - | 22 | - | 10 | - | - |
下 台 | 22 | - | - | 39 | - | - |
藤 葉 | - | - | - | 12 | - | - |
下 山 | - | - | - | 3 | - | - |
宮 下 | - | - | - | 3 | - | - |
計 | 78 | 61 | - | 164 | - | - |
合 計 | 475 | 438 | 381 | 545 | 381 | 429 |
表-23 城下町の家数 |
④人口
城下町の人口についての史料は少ないが、次のようになっている.
ア 正徳2年『壬生表町・通町明細帳』
合 計:3,204人. 男:1,754人.女:1,449人.
表町:1,552人. 男: 847人.女:705人.
(通町:1,652人. 男: 907人.女:744人.但男女別で1人不足)
イ 延享3年
惣人数:2,555人. 男:1,454人.女:1,101人.
ウ 天保14年 『宿村大概帳』
宿内人別:1,870人. 男:1,000人.女: 870人.
これらの史料の数値の採り方が、どのようになっているかわからないので、一概には言えないが、傾向としては時代が下るにつれ、減少している傾向が見られる。先に見た家数のところで、『明細帳』と『書上帳』とでは、家数は一致していたが、人口では649人もの差が見られる。
なお『明細帳』には、「店借」について記されている。
「表町 店借九人 内七人御他領者 弍人御領内者
通町 店借九拾三人 内拾九人御他領者 七拾四人御領内者」
というように、借家人の存在が記され、壬生藩領以外の出身者も城下町に住んでいたことを記している。