表町・通町両町と飯塚町は「三町」と呼ばれ、町奉行の支配下にあったが、支配そのものは村として位置付けられていたことは、先に触れたとおりである。
しかし表・通両町は、藩のお膝元であることから、他の藩領の村々とは異なる立場にあった。
そのため両町名主は、他の村の名主とは異なる役目があった。それが割元と呼ばれるものである。
割元とは、藩が領内の村々への御触れを伝達する際は、先ず両町の名主に伝達され、それを領内の各村々へと伝達する役目である。この割元の役目は、両町の名主が10日交替で割元当番を勤めていた。
この当番の名主方は、1人を郡方役所に詰めさせ連絡にあたらせ、その連絡を各村に伝えるための使番を置いていた。
使番は、表町名主が当番の時には昼夜とも4人、通町名主が当番の時には同じく3人が詰め、領内の村々に「御用之書付」を持っていく役目を担っていたが、表町と通町で人数が異なる理由は不明である。
このように両町名主は、同じ壬生藩の領内にある「村」の名主ではあっても、別格であったことがわかる。その一例として、『明細帳』には次のようなことが記されている。
「先御代々御地頭様より、壬生両町ニ御領内在々村役人共、御城中へ被召寄御用等被仰渡候節、両町名主問屋共、椽(縁)之上ニ罷在候、村々役人之儀は庭ニ被指置被仰付候」
というように、城中に呼び寄せられた際は、宿の最高責任者である問屋とともに縁の上に居ることができた、と記されている。他の村々の村役人が庭に控えているのとは、大きな違いであった。