(3)商工業

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①商人と職人
 『明細帳』には「商売并諸職人」として列挙されている。これを業・職種ごとにまとめ表にしたのが下の表[表-24]である。
 ここには、29種、127人の商・職人が記されているが、業・職種、人数とも通町の方が多いことがわかる。商人と考えられる造酒屋から薬種屋までの11の業種でも、表町の24人に対し通町は51人と倍以上もの差があり、これを見るかぎりでは、商売の中心は通町にあったことが窺える。
 ここに記された商・職人は、生活に密着したものがほとんどである。そのうちでも「とき鞘師」や「舟大工」などが見られることは、城下町や河岸といった当時の壬生の町の特徴を示している。
 なお、屋根葺きの職人で、板や萱屋根葺きの職人はいるが、瓦屋根葺きの職人が見られないことから当時の町屋の屋根は、板葺きや萱葺きがほとんどであったことの表れであると考えられる。
 また旅籠屋については、商人の範疇には入らないのか、一軒も記されていない。
 
業・職種表町通町
造酒屋235
(ほかに休酒屋)(2)(4)(6)
米屋2
68
油屋235
穀屋123
塩屋41014
肴屋235
味噌屋33
糀屋22
小間物屋41721
紺屋358
薬種屋11
鍋屋22
鍋鋳懸112
鍛冶屋314
大工9615
桶屋235
萱屋根葺224
板屋根葺112
壁塗師213
木挽224
唐笠・提灯張112
檜物屋11
金具彫物師11
とき鞘師11
筆屋11
差物屋11
仕立屋22
舟大工11
乗物屋11
業・職種数202629
人数4978127
表-24 城下町の商人と職人

②市と見世(店)
 ここに記された商・職人が商売する場が、市であり見世である。
ア 市
 市について『明細帳』では、次のように記されている。
 「当町市場
  四日 九日 十四日 十九日 廿四日 廿九日
                以上六日通町
  二日 七日 十二日 十七日 廿二日 廿七日
                 以上六日表町」
というように、月のうち通町では4と9の日に、表町では2と7の日に市が立つ、「六斎市」が行われていたことが記されている。
 もっとも表町については「只今ハ市立不申候」と正徳2年には市が廃れていることも記されている。
 ところが天保14年になると、「此宿市立なし」というように、通町でも市が行われなくなったことが『宿村大概帳』からわかる。
 この市が立たないという問題について、『壬生町史』や『栃木県史』では、「18世紀の壬生町とその周辺地域の商品生産と流通は、きわめて未発達の状態にあったといえる。」としているが、天保年間には市が立たなくなっていることから、むしろ月に6回、両町合わせても12回ずつの市では、もはや商売しきれず、固定した商売の場「見世」へと変化していたことの表れと考えられる。
イ 見世(みせ・店)
 見世について『壬生通町屋敷並尺間数書上帳』によると、通町168軒のうち18軒に「見世」と記されている。見世のある家は、船町との分岐点付近から宇都宮道の分岐点付近との間に集中しており、上通町・中通町の辺りが当時の繁華街であることがわかる。
 見世の構造は明らかではないが、4畳から12畳の広さがあり畳敷が多く見られるが、板敷莚敷の見世も数軒見られる。
 『城代日記』には、見世に関して次のようなことが記されている。通町問屋半兵衛隣の伴右衛門が見世にするため、表通に庇を4間にわたって取り付けたいとの願い出に対して、半兵衛寄りの1間を残した3間で許可が下りた。ところが「庇無之候而者商売物差置候ニ差支」とのことで「壱間之所杉皮ニ而釣日覆いたし」、通行に差支えるときは取り外すことで再度願い出ている。
 この伴右衛門の商売は不明だが、見世が通りに柱を建て庇を出した構造になっていた所もあることを示している。『壬生領史略』には、母屋に庇のついた家々が通りに沿って並んでいる姿が描かれている。これらは見世と考えられ、「大手御門広小路」から「御高札場」にかけての下通町辺りや宇都宮道の分岐点の付近が描かれているが、『壬生通町屋敷並尺間数書上帳』の時代よりも見世が増えていることを想像させる。
 『宿村大概帳』には、「農業之外、旅籠屋は旅人之休泊を受、またハ食物商ふ茶店有之、其外諸商人多し」というように、城下町の繁盛ぶりが記されていることが、よい証拠であろう。
 
③商売物
 市や見世で売られた品々として、『明細帳』には「当地商売物」として品々が挙げられ、品目ごとに示すと、次のようになる。
 *穀 物:米・糯米(もちごめ)、大麦・小麦、稗、大豆・小豆。
 *食料品:牛房(蒡)、蕎麦、塩、肴類、酢・醤油、干物、煙草。
 *衣料品:布木綿類、絹、小間物、荒物。
 *肥 料:粉糠、干鰯、焼酎粕・油粕。
 *燃 料:薪、炭、油。
 *その他:紙類、縄、板・敷居・鴨居・戸ぶち・戸桟。
 これらの品々のうちで「右当所より出不申候をハ、商売人他所より買込売買仕候」というように、産出しない物は他から買込んで商売していたことがわかる。
 とくに絹については、「是ハ時々上州より商人参候」というように、産地である上州(群馬県)から商人が来て商売をしている様が記されている。
 以上のように、生活必需品を中心に、いろいろな品物が売られていたことがわかった。
 
④造酒屋
 江戸時代は「米」を中心に経済が成り立っていた。そのため、その米を原料とする酒造は、「株」という登録制にして酒造の統制を図っている。
 『明細帳』には、酒造について「両町酒株石高」として一項ある。城下町で酒造を営む者は[表-24]にあるように、表町2人、通町3人の計5人おり、酒株石高は、表町410石、通町710石の計1,120石であった。
 このほか、通町の3人が薬師寺村、金井村、仁連村の3ヵ村の者へ株を貸し、表・通町で1人ずつ酒造を休んでいるとある。