(4)町の諸施設

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①用水堀
 用水については、“1-(4)用水”で赤塚村で黒川から取水して、城下町の田んぼの用水としていたことは既に触れている。この用水は、田んぼだけでなく城下町の生活用水としても利用されていた。
 壬生通に沿って南下した用水は、城下町の北の入口(日光口)の南方で2本に分けられる。
 1本は、町通の中央を新町~通町と流れ、高札場の付近で左(東)に折れ、清水欠の田んぼを潤す流れと下台方面への流れとに分流する。
 もう1本は、三の丸の濠に沿って流れ、南追手門の南方で下台郭の中に入り、南追手門前で右(南)に折れ四谷口に向かったのち左(東)に折れ、表長屋前の道に沿って流れたのち密蔵院西方で曲輪の外に出て、通町と表町の境付近から壬生通の中央を流れて江戸口から城下町の外へと流れていく。
 このうち、表町を流れるルートは、下台郭に入る所で2m余の高低差があるため、土地の低い所から高い所へ水を流す工夫として、水路を何度も曲げて水に勢いをつけ、高低差を乗り切っている。この屈曲の部分は現在でもよく残っているが、俗に「七曲り」と言われている。
 また地形的な制約としては、町通で用水の通じていない所が見られる。現在の駅前通りと大通りが交差する付近であるが、この辺は台地の末端になるため地形に起伏がある。『切絵図』では「だらだら」と記されているが、文字どおりだらだらとした上り坂といった趣である。そのため用水を通すことができず、この部分だけ途切れたものと考えられる。
 なお、城下町の飲用水については、『宿村大概帳』に「呑水ニ掘井を用ゆ」とあり、井戸を掘って飲用水を確保していたことがわかる。
 
②橋
 町通の真ん中を用水が流れているため、所々に橋が架けられていた。『明細帳』では、追手門前が板橋であったほかは土橋で、「土橋 拾弐ヶ所 内 表町五ヶ所 通町七ヶ所」であった。
その場所について『壬生城廃城凡覚書』には、次のようにある。
 *表町「網ノ屋前、上横町前、問屋前、下横町前、江戸口」
 *通町「御高札前、本陣前、搦手前、加藤前、寺御前(意味不明)、上新町」
 また同書では、「土橋之儀、皆當今板橋ニ相成候」とあり、明治初年には、既に板橋に架け替えられていたことがわかる。同時に追手門前についても、「大手前元板橋、鳥居様ヨリ石橋ニ相成候、今以其通」というように、こちらも石橋に替えられていることがわかる。
 これについては『宿村大概帳』に、
「一板橋 字無之 長壱間 横壱丈 拾三ヶ所.一石橋 字中通町 長壱間 横七尺五寸.」
とある。板橋の数が1ヶ所違うが、他に橋の記述がないため、『明細帳』の記す土橋のことと考えられる。これにより、天保14年の段階で、既に板橋に替わっていたことが明らかになった。
 このほか城下町の橋としては、黒川に架けられた2ヶ所が挙げられる。
 1ヶ所は城下町の南方、壬生通が通る下河岸の所、もう1ヶ所は宇都宮道の通る上河岸の所でともに壬生藩で修理・架け替えを行っていた。下河岸の橋は、『宿村大概帳』に
 「字黒川御成橋 仮板橋 長三拾壱間 横九尺 是は年々十月より翌年三月迄領主ニ而懸渡来」とあるように、黒川の渇水期間だけ架けられる橋であった。
 
③辻番所
 『明細帳』には「辻番所八ヶ所 内通町五ヶ所 表町三ヶ所 右之番所破損仕候節=御地頭様より御仕替被遊候」とあり、『壬生城廃城凡覚書』によると場所は次のようになっている。
  「通町五ヶ所 内、御高札場、舟町入口、搦手町入口、正平山角、和久井西
表町三ヶ所 内、加藤蔵南、下横町入口、小田垣小四郎南」
 なお、これらの辻番所のうち、通町3ヶ所・表町2ヶ所については、「行燈附候場所」であったことが『明細帳』に見られるが、その場所は明らかではない。
 
④高札場
 “2-(3)宿の運営”で高札番については触れているが、その高札を掲げておいた所が「高札場」である。『宿村大概帳』によると、「高 壱丈弐尺 長 壱丈七尺四寸 横 六尺四寸」であった。
 『壬生領史略』には、石の土台の上に周囲を柵で囲み屋根をつけた姿が描かれている。この囲や雨覆いが破損した時は、藩で修理することになっていたことが『明細帳』に見られる。
 高札場の場所は、足軽町口の北側になる。『複製図』にもこの位置に、柵と屋根のある高札の絵が描かれ、高札場と記されている。
 
⑤米蔵
 『明細帳』には「御米蔵両町ニ壱ヶ所宛御座候」とあり、『壬生城廃城凡覚書』にも見られ、「通町御米蔵 壱ヶ所 搦手横町西角有之候 表町御米蔵 壱ヶ所 元名主大島宅裏ニ有之候」
と記されている。
 『複製図』では、表町の米蔵は見られないが、通町のものは搦手門外北側に「在蔵屋鋪」とある所になる。
 この米蔵の詳細は不明であるが、破損した時は、材料や費用は藩で負担し、人足は町で用意する仕組みになっていた。
 
⑥牢と刑場
 『複製図』を見ると、搦手門外南側に「牢屋」と記されている。『壬生城廃城凡覚書』にも「搦手御門脇南」となっており、幕末までその位置に変わりがないことがわかる。
 『明細帳』には、「籠屋之儀は御地頭様より御造被遊候」というように、藩で造ったものであるが、牢番については、町で負担することにしたようである。まとめてみると次のようになる。
 *三浦家の時代は、牢番は領内の村々が廻り番で勤め、費用はその村々で負担した。
 *松平家の時代は、牢に入れられた者の出身の村が、牢番や費用を負担した。
 *加藤家の時代は、3~4年前までは松平家の時代と同じ。3~4年前から、牢番は通町で出し、費用は入牢した者の出身の村で負担する。
そして、鳥居家の時代は、加藤家の時代の後者の方法が採られていた。
 なお、無宿人が牢に入った場合は、「三郷割」「一郷割」「一村割」というように、場合によって負担の割合が異なっていたとあるが、その詳細は不明である。
 なお、この牢屋の場所を「処刑場」と誤り伝えられているのを見聞きする。上に挙げた史料からも明らかなように、ここは入牢を言い渡された者の入る牢屋である。
 壬生藩の処刑場はここではなく、上河岸にあった。これについては別の史料により確認されている。
 
⑦時の鐘
 『明細帳』には、「当町時之鐘つき之儀」として、三浦明敬の時に始まり現在(正徳2年)に至っていること、鐘撞きの扶持は、三浦家の時代は3人扶持、松平・加藤家の時代は4人扶持であったこと、鐘は興光寺の鐘を使っていること、などが記されている。
 『複製図』の興光寺の所を見ると、「浄土 興光寺 時鐘有」と記されている。
 また、廃藩置県後のことであるが、この時の鐘の復活を願い出た史料がある。
 「当今元御城之夜之時御廃止ニ付」いろいろと不便なので、明治4年12月付で日に4回、「従前之例ニ随ひ、拙寺洪鐘別紙之通撞初申度奉存候」というように、時の鐘の再開を願い出ている。
 「尤先年鐘楼堂も焼失後、久敷休置候得ハ」というように、火事(伊勢屋火事と考えられる)以後は、時の鐘は休んでいたことも記されている。
 このように幕末まで、城下町の人々に時を知らせる鐘が、興光寺の梵鐘を使って行われていたことが明らかになっている。
 なお、城で時報をしていたとあるが、『壬生城廃城凡覚書』には、二の丸門内に「御太コ矢倉御座候、此勤候者ニ而昼夜時之太コヲウツ」と記されている。太鼓櫓の存在、時報の太鼓については、他の史料には見られない事柄であるが、他の藩(城)の例を見ると、むしろない方がおかしいくらいである。壬生藩では火事を知らせる「火事太鼓」についての取り決めが、正徳6年11月付で出されているのを見ても、お城の太鼓の存在は間違いがなく、現在は根拠となる史料の出現を待つところである。
 
⑧火除土手
 『複製図』には、壬生通の両側に5ヶ所土塁が描かれ、「火除土手」と記されている。目的としては、名前の示すように、火災の延焼を防ぐためのものと考えられるが、現在わかっている火事で、この火除土手が火を防いだ記録は見られず、当初の意図のようには働いていなかったようである。
 この火除土手5ヶ所のうち、4ヶ所までは通町にあり、表町には、南北に長い表町のほぼ中間に1ヶ所見られるだけである。
 現在は搦手通り入口北側、早瀬氏宅の垣根の一部として、通りに沿って長さ10m余・高さ2m余の土塁が残るほかは消滅している。
 
図-18 城下町の諸施設