史料に「壬生河岸」が初めて現われるのは、慶安4年(1651)の『下野一国』である。
「一川道七里弐拾町三拾間、細戸(網戸)舟つきゟ壬生町迄高瀬舟往行之道(中略)
一大光寺かしゟ壬生町かし迄弐里弐拾六町卅間、壬生ノかし者廣さ拾八間、水乃分拾四間ふかさ弍尺。合七里弐拾町、此うち四里之分冬ハ水少舟往行無之候」
というように、黒川遡航の終点として「壬生かし」の名が出ている。
その後、元禄3年(1690)4月に幕府によりまとめられた『関八州伊豆駿河国廻米津出湊浦々河岸之道法並運賃書付』にも、「下野国黒川 一壬生河岸 江戸ゟ川道三十五里運賃米百石ニ付四石」
この壬生河岸が、五河岸の総称なのか、五河岸のいずれなのか確証はない。
一方、宝永5年(1708)の『壬生藩領分道法覚』には、河岸の成立年代について、半之丞河岸(清水河岸)・弥兵衛河岸(上河岸)・平十郎河岸(下河岸)は延宝8年(1680)、五左衛門河岸(中河岸)は貞享3年(1686)にそれぞれ開設されたとある。この史料では、五河岸のうちで最も上流の上河岸と下流の下河岸が同時に開設されたことになるし、先にあげた『下野一国』よりも30年も後に成立したことになるという矛盾が生じてくる。
以上のことから、壬生河岸の成立の時期は、慶安4年には既に河岸として機能していたと考えられるが、五河岸の開設の年代や順序などは今後の検討課題といえよう。