『壬生領史略』を中心にして、それぞれの河岸の特徴について、下流から順に見てみよう。
①下河岸
*「五河岸」の最も下流にあった河岸で、立地条件は最も良いため「壬生河岸第一等の河岸」と記されている。
河岸の成立は五河岸の中では最も早いと考えられるため、『下野一国』の記す壬生河岸は、下河岸とする考え方もある。
*壬生通の黒川渡河地点にあり、水量のある夏季には渡し船があったが、水量の減る10月から3月までは、藩によって仮橋が架けられていた。
*日光や鹿沼周辺の材木類、壬生周辺の産物の積み出しを行っていた。
*舟数は、正徳2年で6艘、安政6年で9艘、明治2年で3艘であった。
②清水河岸(藤井河岸)
*壬生城下町から日光道中小金井宿へ通じる道の黒川渡河地点にあり、渡し船があった。この渡し船は、藤井村で営業していた。
*舟数は、正徳2年で6艘、安政6年で9艘、明治2年で8艘であった。
③宮下河岸(加藤河岸)
*雄琴神社の南東方にあった。そのため宮下の名がついたという。宮下の名は、この辺りの字名でもあり、地名を採ったとも考えられる。
*加藤河岸の別名については、加藤家によって経営されていたためで、『地籍図』には「字加藤川岸 加藤作右衛門」とあり、地目は竹林であった。明治9年頃には、河岸として機能していなかったとも考えられる。
*舟数は、正徳2年で2艘とある。
④中河岸
*宮下河岸のすぐ北側にあった河岸である。
*天保14年の『宿村大概帳』には、「当時中河岸、相休居候」と出ている。
そのため、壬生の河岸から幕府の藤岡代官所に、毎年2貫500文(1ヶ所500文)の運上金を納めていたが、中河岸は休んでいるため規定の半分250文、計2貫250文を納めていた。
*舟数は、正徳2年で6艘とある。
⑤上河岸
*奥州中街道の黒川渡河地点にあったため、渡し船があった。この地も夏季は渡し船、冬期は仮橋が架けられた。
*江戸への薪炭積出しの問屋があった。
*舟数は、正徳2年で7艘とある。