城下町にあった寺々について、史料ごとにまとめたのが下の表[表-25]であり、その寺々について、宗派・所在地などをまとめたのが、下の表[表-26]である。
これら2つの表からわかることをまとめてみよう。
ア 寺号
[表-25]を見ると、江戸中期と考えられる年不詳の『複製図』以降とそれより前とでは、史料に表われる寺号には違いが見られ、とくに表町については、かなり差異がある。論拠となる史料が少なく、はっきりしたことは言えないが、城下町の町割変更の具体例の一つと考えられるが、どうであろうか。
なお、「11台林寺」の山号は『明細帳』には、「報恩山利性院台林寺」とあり、『壬生領史略』とは全く異なっている。
また、山号・院号ともついているのは、この台林寺と「5興生寺」の2ヶ寺しかない。台林寺の場合を見ると、貞享3年(1686)建立と歴史は浅いが、慈覚大師ゆかりの地とのことで日光輪王寺門跡の命により建てられたうえ、上野の東叡山寛永寺の直末ともなっていた。『壬生城廃城凡覚書』に「但シ寺格能ニ付、山号院号有」がそのことを物語っている。
イ 宗派
城下町の寺院は、真言宗が最も多く、次いで禅宗となっている。これに対して、壬生町出身とされる慈覚大師の広めた天台宗の寺院は、その誕生の地とされる台林寺しか見られない。
ウ 本尊
『壬生領史略』では、半分近くが不明である。同書に記されている分では、薬師如来が3ヶ寺で最も多く、釈迦如来・虚空蔵菩薩が2ヶ寺ずつ、阿弥陀如来・千手観世音が1ヶ寺となっている。
エ 境内
寺の境内については、ほとんどが年貢等を免除された土地、除地となっている。唯一「5興生寺」だけが、朱印状により寺の領地として与えられた御朱印地となっている。先に寺号のところで興生寺は山号・院号ともについていることに触れたが、御朱印地を与えられていることからも、寺格の高さを証明している。
また境内の反別(面積)を見ると、台林寺が1町を超え最も広いが、『壬生城廃城凡覚書』では4反6畝となっており、大きな差がある。この1町6反は境内以外の畑などを含んだ数値とも考えられ、検討の余地がある。確実なところでは、興生寺の8反8畝9歩が最も広く、常楽寺の8反1畝がこれに次ぎ、他の寺と較べると飛び抜けて広いことがわかる。大半の寺は、1~2反歩で、最も狭い福定院は7畝25歩というように1反にも満たない。
なお、『宿村大概帳』には、壬生通筋の寺について、街道からの距離と広狭が記されているが、大半が「手狭なり」とあり、「手広」とあるのは興生寺と興光寺の2ヶ寺で興光寺については、「但、右寺往還附ニ而手広ニ付、宿方差支之節は休泊請候儀有之」というように、大人数のため本陣・脇本陣でも間に合わない時は、休息・宿泊の場となったことがある、と記されている。興生寺に休泊請候儀がないのは、「往還より四町程引込有之」ためと考えられる。
境内の最も狭い「福定院」でも「宿方差支之節は休泊受候儀有之」とあるのは意外である。
オ 開基・中興年
[表-26]のうち、太字になっているものが、中興の年とされているものを示している。
これを見ると、「興光寺」「興生寺」「常楽寺」といった現在も続いている寺の開基が古いことがわかる。
また、1520年と1600年の前後に開基・中興の年が集中している。特に1600年前後は、壬生氏が滅亡した後、結城領内に組み入れられた時期であり、壬生を本拠とする大名がいなかった時期に開基・中興がなされたという面白い結果になっている。
宿割帳 | 宿割帳 | 明細帳 | 大概帳 | 壬生領史略 | 廃城覚書 | |
(寛永17) | (寛永19) | (正徳2) | (天保14) | (嘉永3) | (明治初年) | |
1 妙珊寺 | * | * | ○ | ○ | ○ | ○ |
2 密蔵院 | * | * | ○ | ○ | ○ | ○ |
3 宝幢院 | * | * | ○ | ○ | ○ | * |
4 豊栖院 | * | ほうせい院 | ○ | ○ | ○ | ◎ |
5 興生寺 | かう志やう寺 | * | ○ | ○ | ○ | ◎ |
6 安養院 | あんにう院 | ○ | ○ | ○ | * | |
7 千手院 | せん志ゆ院 | * | ○ | ○ | ○ | ○ |
8 無量寿院 | む里やう志ゆ院 | ○ | ○ | ○ | ○ | |
9 興光寺 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ◎ |
10福定院 | ふくしゃう院 | ○ | ○ | ○ | ○ | |
11台林寺 | * | * | ○ | ○ | 慈覚大師 | ○ |
12自性院 | ぢ志やう院 | ○ | ○ | ○ | ○ | |
13一乗院 | * | * | ○ | ○ | ○ | ○ |
14瑞松寺 | ずい志やう寺 | ○ | ○ | ○ | ○ | |
15常楽寺 | 志やうらく寺 | 浄楽寺 | ○ | ○ | ○ | ○ |
16持宝院 | 志ほう院 | ぢほういん | ○ | ○ | ○ | ○ |
17地蔵堂 | * | * | * | ○ | 縄解地蔵 | ○ |
18かなふ院 | * | ○ | 加能院 | 加納院 | 加納院 | * |
19けんのう坊 | * | ○ | * | * | * | * |
20大正院 | * | ○ | * | * | * | * |
21けんおん坊 | ○ | * | * | * | * | * |
22ちうせん坊 | ○ | * | * | * | * | * |
23志ゆせん坊 | * | ○ | * | * | * | * |
24こん志ゆ院 | ○ | * | * | * | * | * |
25こうさう坊 | * | ○ | * | * | * | * |
表-25 史料にみる寺院 |
宗派 | 寺 号 | 所在地 | 本尊 | 境内地 | 開基中興年 | ||||
反・ | 畝・ | 歩 | |||||||
1 妙珊寺 | 禅 | 湖月山妙珊寺 | 表町中町火除下東側 | 釈迦如来 | 除地 | 1 | 3 | 23 | - |
2 密蔵院 | 真言 | 米山密蔵院 | 下台郭内 | 薬師如来 | 除地 | 1 | 3 | 6 | 永正5(1508) |
3 宝幢院 | 〃 | - | 下横町中程 | 虚空蔵菩薩 | 除地 | 2 | 3 | 永正15(1518) | |
4 豊栖院 | 禅 | 上原山豊栖禅院 | 表町地内下台郭内 | 虚空蔵菩薩 | 除地 | 3 | 7 | 6 | 大永2(1522) |
5 興生寺 | 真言 | 医王山満月院興生寺 | 上横町西の方 | 薬師如来 | 朱印 | 8 | 8 | 9 | 文明 2(1470) |
6 安養院 | 〃 | - | 興 生 寺 前 | - | 除地 | 1 | 6 | 19 | 文禄 元(1592) |
7 千手院 | 〃 | - | 中通町東側中程 | - | 除地 | 1 | 6 | 19 | 慶長 7(1602) |
8 無量寿院 | 〃 | 威徳山無量寿院 | 上通町東側中程 | 薬師如来 | 除地 | 2 | 5 | - | - |
9 興光寺 | 浄土 | 深渡山興光寺 | 大手御門外北方 | 阿弥陀如来 | 除地 | 2 | 5 | 14 | 応永年中-1400頃 |
10福定院 | 真言 | 福聚山福定院 | 下新町西側 | - | 除地 | - | 7 | 25 | 慶長 元(1596) |
11台林寺 | 天台 | 起忍山北性院台林寺 | 上新町北側中程 | - | 除地 | 1町 | 6反 | 歩 | 貞享 3(1686) |
12自性院 | 真言 | - | 上 新 町 | - | 除地 | - | 9 | 18 | 天正10(1582) |
13一乗院 | 〃 | - | 搦 手 横 町 | - | 除地 | 1 | 5 | - | 慶長 元(1596) |
14瑞松寺 | 禅 | 九亀山瑞松寺 | 搦手横町北側中程 | - | 除地 | 4 | 8 | - | 慶長年中‐1600頃 |
15常楽寺 | 〃 | 向陽山常楽寺 | 搦手御門外北方 | 釈迦如来 | 除地 | 8 | 1 | - | 延徳 元(1489) |
16持宝院 | 真言 | 福聚山持宝院 | 舟 町 東 | 千手観世音 | 除地 | 6 | - | - | 永禄年中‐1565頃 |
17縄解地蔵尊 | 小金井道の傍、東下台にあり。なお地蔵堂所在地は年貢地であった。 | ||||||||
18かなふ院 | 寛永17年宿割帳に見られる。荒町かなふ院とある。 | ||||||||
19けんのう坊 | 寛永19年宿割帳に見られる。横町けんのう坊とある。 | ||||||||
20 大正院 | 寛永19年宿割帳に見られる。あら町大正院とある。 | ||||||||
21けんおん坊 | 寛永17年宿割帳に見られる。横町けんおん坊とある。 | ||||||||
22ちうせん坊 | 寛永17年宿割帳に見られる。通町ノ内よこ町ちうせん坊とある。 | ||||||||
23志ゆせん坊 | 寛永19年宿割帳に見られる。通町横町志ゆせん坊とある。 | ||||||||
24こん志ゆ院 | 寛永17年宿割帳に見られる。小袋町こん志ゆ院とある。 | ||||||||
25こうさう坊 | 寛永19年宿割帳に見られる。小袋町こうさう坊とある。 | ||||||||
表-26 寺院の一覧 |
② 寺の配置
一般に城下町では、普通の町人の屋敷よりも広いうえ、山門や塀などがあることから、寺を城下町防衛の拠点として配置している場合が多い。そのため城下町によっては、寺を1ヶ所あるいは数ヶ所に集めて寺町を形作ったり、場所も城下町の入口付近や攻防の拠点となりそうな所に配置したりと、様々な工夫がされている。
壬生城下町の場合、寺の配置は『複製図』や『復元図』からも明らかなように、集中させるのではなく、分散させて配置している。
しかも境内の広い、興生寺・常楽寺などは城をはさんで反対側に位置している。興生寺は旧追手に通じる道に、常楽寺は搦手に通じる道に接しており、城の防御のポイントとして考えられていたと見られる。とくに常楽寺の場合は、正念寺曲輪の塁濠が常楽寺に突き当たる形で途切れており、明らかに常楽寺を考慮して縄張りをしたと考えられる。
このほか城下町の寺の配置の特徴として挙げられることは、通町に対して表町に寺が少ないことである。とくに壬生通と奥州中街道(『複製図』では佐野海道)との分岐点から江戸口迄の間には、寺は1ヶ所も見られない。通町では、壬生通の左右に間隔をもって配置されているが、表町には「密蔵院」「宝幢院」「妙珊寺」が点在するのみである。
このような理由については幾つか考えられるが、城下町の歴史で触れた、城下町の町としての起源に関係すると考えられる。
いずれにしても、壬生城下町の寺の配置は、街道筋に分散して配置するタイプであった。
③ 明治以後の寺院
江戸時代は「寺請制度」の下、寺院は幕府により保護されていたが、明治になると政府により神仏分離令が出され、藩にあっても明治2年から社寺本末合併が進められ、次々と姿を消していった。
その結果、16ヶ寺あった寺院が、興生寺・興光寺・常楽寺・豊栖院の4ヶ寺となり、大正2年台林寺跡地に建立された紫雲山壬生寺を含めてもわずか5ヶ寺となり、現在に至っている。