「壬生城の中世と近世」概説

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壬生城の中世と近世
黒田 日出男
 
 壬生城の城としての性格、たとえば縄張りの特徴などについては、城や城下町の専門家ではないわたしとしては、的確に述べることができない。そもそもそうしたことについては、本企画展が豊かな情報をあたえてくれるはずだ。ここで書きたいことは、かつて壬生町史の編纂に関わったことのあるわたしが、今もこだわり続けている二、三の問題点についてである。
 
壬生の近世/城の近世
 その第一は、中世と近世では壬生城と町の景観がどのように違ったのか、ということである。
 そのことを考える上で、黒川の流れが重要であり、その流路変更(堀割・堀切)がいったい何時なされたのかが問題となるのである。黒川の流路変更は、『壬生領史略』の上稲葉村の記述(壬生町史資料編 近世・付録)に、
○堀切は高雄明神の北一二町にあり。往古、黒川は峰山西手を法印淵・下馬木の東の方に流。此の川年々歳々の水の為、稲葉・羽生田両村損害を蒙りしこと屡々なれば、両村申合、境を纔七八間堀切、其水難を免れたと云。農民の物語なり。今ハ百三四十間余となれり。
とあることによって窺うことができるのであり(65頁)、わたしも、壬生町史編纂(中世史担当)に関わっていたので、それに関心を持ち、現地を少し歩いてみた(この〈堀切〉の写真は『壬生町史 通史編Ⅰ』カラー口絵と348頁を参照)。しかし、町史編纂のための調査では、ついに〈堀切〉の事実(時期・主体など)を裏付ける史料を見出すことは出来なかったのだが、わたし自身の推測でも、〈堀切〉が近世初期に行なわれたことは間違いないことだと思われる。壬生の藩主は、日根野吉明、阿部忠秋、三浦正次・安次・明敬、松平輝貞、加藤明英、鳥居忠英・忠暸・忠意‥‥と続いたが、そうした〈堀切〉の時期としては、やはり50年余りにわたって藩主だった三浦氏の頃(1639[寛永16]年~92[元禄5]年)とするのが一番可能性が高いのではあるまいか。たとえば『物語壬生史』も、同意見である。その意味では、近世の壬生を創出した大名と言えるのは三浦氏であったのだ。
 とすれば問題は、そうした〈瀬替〉によって、壬生の歴史景観がどのように変容・変貌したのか、ということである。もちろん、壬生の町は今も刻々と変貌を遂げつつあるわけだが、そうした町の景観の歴史的変貌をビジュアルに描き出す試みが行なわれてもよいのではないだろうか。それは、必ずや壬生の地域史を豊かにするに違いないのだから。
 
壬生城の位置
 第二の問題は、戦国争乱の過程で滅び去った下野壬生氏が壬生城に移る前に、いったい何処を居館としていたのかを明らかにすることである。恐らく宇都宮氏の一族であった下野壬生氏が、小戦国大名として興起する以前には、いったい何処に居館を構えていたのかという謎である。この問いは、壬生城とその歴史を考える上で不可欠であるが、壬生町史の編纂中には、発掘によって考古学的に明らかにすることは出来なかった。悔いの残る点である。だから、これは壬生の歴史の大きな謎の一つであり続けているのである。
 町史編纂のときのわたしは、大小さまざまな地名から、中世や近世の壬生を知る手掛かりを得ようとしたのだが、今思い返して見てもそれは明らかに不十分な作業であった。壬生の地名は、まだまだ十分に採集・検討されてはいないと思う。また機会を見て、壬生の地名を丹念に分析してみたいのである。
 
ある出会い
 そして第三には、町の〈歴史〉というのは、町史の編纂が終了したらそれで終わりというようなものでは全くないということである。歴史の見直し、とらえ直しというのは、何度も何度も試みられるのが本当なのだ。その、最も基礎的な条件として新史料の出現が有る。町史編纂の終了した次の日から、新史料が見付かることがあるくらいだし、発掘によって新たな事実がわかってもくる。
 わたしの経験を話そう。東京大学には全学ゼミナールというのがあって、わたしは1992年前期に教養学部へ行って「絵画史料の読み方」についての講義をした。終わって帰ろうとすると、一人の学生が歩み寄ってきた。彼は、歴史がとても好きであったが、将来の進路を考慮して文科一類(法学部)を選んだのだと言い、自分の祖母の家にある史料をワープロでうった古文書を見せてくれたのである。それを一目見て、わたしは仰天した。その古文書なかには「戒浄坊」という名前が記されていたからである。戦国末・近世初頭の壬生には戒浄坊と名乗る山伏が住んでいて、壬生氏のもとで活動していた(『壬生町史 通史編Ⅰ』437~441頁参照)。その子孫の青年が東京大学の学生となり、『壬生町史』の編纂に関与したことがある私の講義を聞き、しかも壬生町の歴史に関連する祖母の家の古文書を読んだワープロ原稿を見せてくれたのだ。確率の考え方についてはまったく無知なわたしだが、このような偶然は滅多に起こることではないことは確かだ。こうした稀有な偶然によって、壬生の〈歴史叙述〉のための新史料を、わたしは知ることができたのであった。
 このように、壬生町史のための新史料が今後もさまざまな機会を通じて発見されていくことだろう。そうした新史料の発見と考古学的発掘により新事実がある程度蓄積されたならば、それだけでも、壬生町史書き直しの必要条件となっていくのではないだろうか。
 この企画展もまた、そうした壬生町の歴史を再把握を促すような〈新事実〉発見の興味深い場となることだろう。
(東京大学史料編纂所教授)