Ⅵ壬生城 その廃城を探る

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空から見た壬生城と町並み

 江戸時代に藩の中心的施設としてその勇姿を誇った城郭も、明治時代を経て次第に取り壊されていくことになった。
 「栃木県史附録壬生藩懸史」などの記録によると、壬生城は明治3年頃からすでに城郭の廃棄が始まっていたようである。明治6年の廃城令で廃止ときまった城郭は、原則として建造物は売却され、城地も払い下げが行われた。壬生城も基本的には、そうした経過を踏んだことと思われるが資料が乏しく詳細は不明である。
 
 
34.壬生藩縣史 国立公文書館蔵

 明治時代の各藩の政治・制度・官員履歴などの記録である。それは、今日の「町政要覧」の前身になるようなものである。壬生城解体の経過は、「政治部 藩治 縣治」の明治閏3年10月5日の項に記録されている。
 
 
35.蓬莱舘 松本庄兵衛(「大日本博覧図」の内) 個人蔵

 この図は、明治23年に刊行された『大日本博覧図』である。旧本陣松本庄兵衛宅が収められており、廃城後の追手門南側の様子がわかる。画面左手に築山のような一面が、東郭南東隅の土塁になる。また、土塁の下にカギの手に曲がった池が堀の跡と思われる。舟が浮かんでいるのを見ると、そこそこの巾と深さがあったと思われる。
 
 
36.東郭跡及び神仙楼写真 高田キヨ氏寄贈

 大正初期の写真である。これは旧本陣、松本庄兵衛宅である。画面中央の築山及び池があるが、ここが東郭南東隅の土塁及び堀になる。この上には神仙楼が見られる。(現在は下におろされている。)
 
 
 
◇移された壬生城門◇
 
◆小山市日高金之助家の門

小山市本郷の日高家の薬医門は、壬生城の裏門を移したという伝承が残っている。
 
 
◆鹿沼市鈴木稔家の門

 鹿沼市磯の鈴木家の高麗門は、壬生城の裏門を移したという伝承が残っている。