三浦家時代の壬生城について
~九津見家文書を中心に~
~九津見家文書を中心に~
笹崎 明
はじめに
今回の企画展の主役、壬生城は400年もの間、軍事・政治の拠点として続いていたが、その間の姿は、殆ど解明されていない。と言っても過言ではないだろう。
城が続いていた年数に比べ、残存する史料が少なく、目立った遺構もないためか、注目されることも殆どない。多数出版されている「お城の本」で目にすることは大変少ない。明治初年の廃城以来、史料は散逸、遺構は破壊されるに任されたまま現在に至り、いま、昔の城の姿を思い描くことは、かなり困難なことになっている。
このような状況の下、私は以前から城の姿の解明を試みているが、史料が質・量ともに足りない、という致命的な壁に阻まれているのが現状であり、折々に目にした史料という僅かな隙間から垣間見ているに過ぎない。
したがって、今回も同様の手法であるが、寛永16 (1639)年から元禄5 (1692)年まで壬生城(藩)主であった三浦家で家老を勤めた九津見家旧蔵史料の中の『野州壬生御宿城一件 範陳模写』(以下『宿城一件』)と題されている一連の史料、その中でも『御殿并城内坪数間数』(以下『城内間数』)を中心に三浦家が在城した頃の壬生城の姿について、若干の考察をしてみたいと思う。
1.『御殿并城内坪数間数』について
この史料は、本丸・二之曲輪(二の丸)にあった御殿や蔵・小屋の構造と城の各曲輪について、広さ(坪数)や各所の長さ(間数)を記したものである。まとめられた年月は記されていないが、「当志摩守」「延宝九辛酉年八月改」等により、当志摩守=三浦安次(寛永18:1641~天和2:1682)の晩年に記されたものと考えられる。『常憲院殿御実紀』巻五、天和二年三月廿八日の条には「これよりさき、近年に日光山御詣あるべき旨仰出されしかど、連年諸国米穀みのらず、万民疾苦するをもてしばらく御延引あるべしと仰出さる」という、5代将軍徳川綱吉の日光社参延期の記事が見られることから、当時進められていた日光社参の際、先例のように将軍宿城となった時に備えて書き記したものと考えられる。
なお、九津見家文書の中には『城内間数』は2点ある。字体や字句の相違・脱漏等はあるものの、内容的には同じである。ここでは『宿城一件』所収の方ではなく、『壬生町史』付録文書目録に「22.壬生城内訳」とある方を中心に話を進めていきたい。
2.城の構造について
城の構造が一目でわかる史料と言えば、絵図が挙げられる。城郭絵図の第一級史料としては、『正保城絵図』が有名である。正保元年12月に絵図作成の命令が出たことでこの名があり、丁度三浦安次の時代『城内間数』の記された時期にも近いが、壬生城の分は見当らない。
慶安4年3月29日の奥書のある『下野一国』では「居城古城之改」がなされ、城之分として壬生城を筆頭に宇都宮・大田原・烏山・黒羽・芦野の6城の調べが出ている。
都賀郡 三浦志摩守居城 都賀郡壬生
平城[※]
一中仙道り奥州かいとふゟ北ニ阿り
一壬生町通ゟ大手口迄六拾間西ニ有り
一宇都宮町ゟ四里三町弐拾間有り
一古河町札場よりハ六里弐拾八町有り
と記されている壬生城の分のうち、芦野城とともに[※]の所に「御絵図上り申候」の文字が見られない。この御絵図は、慶安4年という時期からすると正保城絵図のことと考えられるが、如何なる理由からか、他の4城よりも提出が遅れていたことが窺える。
その他絵図としては、端裏書に「下野 壬生城図 三浦壱岐守」とある絵図(『日本分国絵図』)と内容から三浦家時代の姿と考えられる『主図合結記』等所収の壬生城図があるが、これらの絵図は、見取図・略図といった内容であり、城の細部を知ることは出来ない。
これらの点から考えると、図面こそないが城の構造が記されている『城内間数』は、大変貴重な史料と言うことが出来る。
前置きが長くなったが、その『城内間数』が記す城の構造は、表〔2〕各曲輪の坪数と間数(P.25参照)のようになっている。
(1)曲輪の名称について
本丸のほかは「○○曲輪」という書き方をしている。『宿城一件』所収の史料には、二之曲輪・三之曲輪と二之丸・三之丸の両方の表記が見られるが、これら表記の違いが時代的変遷を示すか否かまではわからない。
次に「下台惣曲輪」について。惣曲輪とは城下町をも取込んだ曲輪の意がある。先に触れた『主図合結記』系統の絵図の中には、この曲輪の中に「町」と書込んだ絵図や表町・小袋町といった具体的な町名を記した絵図が見られること。さらに明治初年に作成された切絵図(字切図)でも、この曲輪付近の小字名に「字古表町」が見られることなどから、町屋の存在は疑いないが、惣曲輪の名称は他の史料は見られず、『城内間数』の特徴である。
中門外曲輪についても、他の史料には見られない名称であるが、東追手門のある曲輪、ということから、後世の東郭のことと考えられる。
この東郭については、『壬生領史略』の「松平右京大夫輝貞公城主たりし時元禄年中東郭を築かれ大手御門を建てられしとなり…」を根拠として、三浦氏の次の城主、松平輝貞による築造ということが定説になっている。
しかし、このように名称の違いはあれ、曲輪の存在が明記され、略図ながら『主図合結記』等にも曲輪が描かれている。
したがって、後に東郭と呼ばれるこの曲輪は、三浦家の時代には既に存在していたものを、松平輝貞が整備したと考えるべきである。
(2)坪数と間数
『城内間数』の数値を表にすると表〔2〕各曲輪の坪数と間数(P.25参照)のようになる。
坪数については、「延宝九辛酉年八月改」とあるが、三之曲輪までの数値は幕末まで殆ど変わらない。因みに地籍図上は現在も完全な姿で存在している本丸内部の面積を『土地宝典』により求めてみると、5,433.36m2、坪換算で1,646.47坪となり表の数値に近いことから、この坪数は塁濠の部分を除いた内部だけの面積と考えられる。
次に三之曲輪は、侍屋敷の区画を示すと考えられる坪数が列挙されている。171坪から2,710坪まで全部で41区画あるが、400~700坪が2/3を占める。この部分は『宿城一件』所収の方では35区画というように差異が見られ、坪数が一致するのは31区画に留っているが、誤写か底本の違いか現時点では不明である。
一方の間数については「延宝八庚申年十一月改」とあり、坪数と同様に幕末まで数値に変化はないが、坪数が曲輪の内矩の数値であるのに対し「堀共ニ」と明記されており、堀をも含んでの長さであることがわかる。
(3)曲輪内の建物
各曲輪にどんな建物があるのか列挙したのが表〔4〕城内の建物(P.25参照)である。このうち本丸(P.47参照)二之曲輪(P.51参照)には、御殿や蔵・小屋等が多数建てられていたし、三之曲輪には前項で触れたように、侍屋敷の存在が窺われるが『城内間数』『宿城一件』によると「茶屋屋敷」「風呂屋」が、三之曲輪にあったようである。
その場所は、茶屋屋敷が「茶屋後戊亥角迄」という記述から三之曲輪北西隅にあったことがわかるが、風呂屋の方は記載がない。
この点、他の史料を求めてみると、『精忠神社蔵の壬生城図』(以下『精忠図』)に見ることが出来る。同図には、「茶屋屋鋪」が三丸北西隅「風呂屋屋鋪」が三丸南東部にあり、ともに桃色で着色されている。凡例によれば「此色居宅并所〃用屋鋪」とあり、公的な施設という色分けになっている。『精忠図』は作成年不詳ながら、もう少し後の時代の姿と考えられるので論拠とするには難もあるが、茶屋屋敷については同じ所を示していることを強調しておきたい。
一方「正念寺屋敷」のように『城内間数』に「正念寺屋敷 千弐百八拾弐坪」と一行出て来るだけで、他の史料には全く出て来ないものもあり、必ずしも当時の城内の建物すべてを明らかにし得たわけではないが、以上が『宿城一件』等に見る城の構造である。
3.虎口について
城の出入口を虎口というが、多くは出入を遮蔽するための門が建てられたため、虎口=門と捉られている。虎口には、門とともに出入を監視するための番所が建てられた。『宿城一件』では、城内警備の拠点となる番所について、位置・配置人数等が記され、虎口の存在を知る手掛りになっている。ここから考えられる虎口は表〔1〕虎口(門)一覧(P.24参照)のようになっている。
このうち二之曲輪裏門は、後に“巽門”と呼ばれる門のこと、と考えられるが、当時は「新裏門」「新虎口」と呼ばれており、虎口が設けられてそう長い年月は経っていないと推測される。
また下台惣曲輪の虎口としては、別名を四谷出口という「法清院(豊栖院)前木戸」があったことが記されているが、この2点のことは、他の史料には出て来なかった事柄である。
虎口のことではもう一点、追手門のことに触れておきたい。前項でも既に触れているが、従来の説では、南門が元々の追手門で、松平輝貞の時になり東に追手門を建てたことになっている。
しかし、表〔1〕にも見られるように、曲輪同様、三浦家の時代既に東追手門は存在している。むしろ、中門が東中追手御門と記されたり、南追手門がただ南門と記されていたり、東追手門からの道筋が中心であるような書き方になっている。
また、前章で触れた『下野一国』には「大手口は通りから西に60間の所」と記されているし『城内間数』には「五拾四間 同所(東大手門)ヨリ町口迄」とあり、6間の差はあるものの、ともに東追手を指している、と考えられることから、慶安4年には既に東追手が中心になっていたと考えられる。
このことは『野州壬生宿城一件帳 乾』に「寛永正保年御成之節者、南追手御成門ニ而此道筋ニ小袋町与申御座候處、癸卯年御成前此町ゟ出火、大火ニ及候故、只今之通、町ヲ廻申候故、東追手御成門ニ罷成云々」と記された出来事、つまり、御成の道筋に当る城下町屋の焼失という事件を契機になされた御成門の変更が、結果として東追手門の格を高めるのにつながったものと考えられる。
さて、表に挙げた各虎口は、どのような構造になっていたのだろうか。『宿城一件』からは、門が構えられ中に入ると番所が設けられていた、位のこと迄しかわからないが、門のことはもう少し明らかに出来る。
『城内間数』には、本丸と二之曲輪の表門について、桁行と梁間が記されており、本丸:桁行四間、梁弐間、八坪
二之曲輪:桁行弐間半、くくりともニ、梁七尺程
と記されているが、これだけでは、どの様な形式の門であったか迄は、わからない。
ところがただ一つ、南追手門だけは、その姿かたちを知る手掛りがある。それは『壬生領史略』の記述である。南追手門について、「三浦家城主たりし時大手御門と云。今に御櫓の鬼瓦丸に三引の瓦存せり」との詞書とともに、大棟両端の鬼瓦が強調された櫓門が描かれている。嘉永3年という幕末に描かれたこの絵が、どれだけ三浦家在城当時の姿を留めているか確証はないが、三浦家の家紋である丸に三引のついた鬼瓦が、屋根に葺かれたまま、ということは、ここに描かれている櫓門が、三浦家当時の姿を留めている、との可能性は大いに考えられる。
虎口は、城の中でも重要な部分の一つであるが、それだけに記録されにくいのか、不明な点の多い所である。
4.本丸について
本丸についての史料としては『城内間数』の他に、元禄8年(1695)から正徳2年(1712)まで在城した、加藤家旧蔵の壬生城本丸絵図(以下『本丸絵図』)がある。
現存する壬生城図の多くは、城や城下町、あるいは領内の村々の位置をも含めた、全体を描いている図が殆どであるが、この絵図は、本丸だけを描いている、という特徴がある。しかも、他の絵図では、番所しか描かれない本丸内部について、作成年は不詳ながら、建物の配置を平面的に描く唯一の絵図で、建物や部屋の名称、建具の種類についての書込みがあり、御殿の構成を見る上では非常に参考になる。
そこで、来歴の異なる『城内間数』と『本丸絵図』を比較対照することで、それぞれの特徴を明らかにして、そこから本丸の姿に迫ろうと作成したのが対照表であるが、両者の描く本丸内部は、殆どの点で内容が一致している。
つまり、『本丸絵図』の描く内容を、三浦家時代にも存在していた、と考えても差支えはないわけで、むしろ互いに補完的な役割を果していると考えられることから、これら2点の史料を基に、本丸について見ていきたい。
(1)縄張について
『本丸絵図』による本丸の形は、他の絵図には見られない形で描かれており、一見他の城の図かと思われるが、南西部の内側に大きく喰い込んでいる部分や北西部の丸みなど、遺構や地籍図等と比較してみると、思いの外正確に描かれている。
南に狭く北に広い本丸の規模は『城内間数』には、「南方四拾四間 東方七拾七間 北方五拾九間 西方六拾八間」とあるが、「本丸廻り 但シ堀共ニ」計った長さであるので、堀敷、土居敷を考えると、各々20間位は少なくなるものと考えられる。
なお、本丸の塁線は、南西部を除くと大きな屈曲は見られず、2ヵ所ある虎口付近にも横矢掛り等は見られない。
(2)虎口について
表門と裏門の名称で2ヵ所あった。表門については『城内間数』に「南表門」とあることから、南の門を指していることは明らかであるが、裏門については番所の記述のみで、位置については触れられていない。
この点について『本丸絵図』では、南と東に「御門」とあることから、裏門は東側にあったことがわかる。この南=表、東=裏という構成は、もともとの追手と搦手の関係と同じである。
なお、東側に虎口の存在を記している史料は『本丸絵図』のみであるが、後述する対照表や番所の位置から見ても、三浦家時代には、本丸に東の虎口が存在したことは確かであり、時代の比定はなされていないが、東の虎口があったことは、発掘調査によっても確認されていることから、むしろこの絵図の信憑性を高めるものになっている。
しかし、他の史料、特に本丸に2ヵ所の虎口を記した史料では必らず南と北になっているし、昭和22年迄残存していた遺構でも、南北に出入口があった。そこで、東の虎口が北側に変更になったのは何時か、という新たな疑問も生じるが、今回はその検証はせず指摘するに留めたい。
(3)建物について
本丸内部の建物について、御殿等は次で触れるので他の建物について見ておきたい。
先ず門について。『城内間数』では表門は前述のとおり「桁行四間梁弐間」とあるが、裏門は記されていない。
一方『本丸絵図』を見ると、表門は柱間で、間口3間、奥行1間(推定4間に2間)、裏門は同じく間口・奥行とも1間(推定1間半に1間)となっている。そしてその平面から表門は長屋門のような形式、裏門は高麗門であったと考えられ、柱の様子から表門、裏門ともに、向かって左側に潜り戸を伴っていたものと考えられる。
これらの門の内側には、表門には2棟、裏門には1棟の番所が建てられていた。いずれも上之間と下之間があり、建坪も10坪を超えた番所としては大型の建物であった。
その他の建物としては塀がある。『城内間数』には「本丸塀」として、7ヵ所、総延長330間半が記されている。うち6ヵ所は御殿に付属するものなので略すが、残り1ヵ所については「百七拾七間 惣廻り瓦」とあり、本丸塁上に瓦葺きの塀が巡らされていたことがわかる。(なお、この177間という数であるが、『宿城一件』所収の方には、「百七拾八間」とある。他の7ヵ所と合わせて計算すると178間の方が正しいようである。)
以上が、御殿等を除いた本丸にある建物で、これを見る限り、城の代名詞にもなっている天守や櫓といった建物が存在した形跡は見られない。
5.御殿について
壬生城の御殿としては、本丸御殿と二之曲輪家とが挙げられる。『城内間数』には、各部屋の名称、桁行・梁間の間数、坪数等が列挙されており、これをまとめたのが次に示す表である。本丸御殿については『本丸絵図』と対照させてある。
(1)御殿の規模
本丸御殿について『城内間数』には、次のように記されている。
「御家坪数五百六十三坪(中略)怛シ畳数九百弐拾畳 百三十坪ハ拭縁囲炉裏之方 三ヶ所番所畳七拾畳 惣畳都合九百九拾畳」
本丸坪数が1,688坪であるから、この丁度1/3が御殿によって占められていたことになる。広大さを示す言葉に「千畳敷」という言葉があるが、この御殿はまさに千畳敷の建物であった。
これに対し、二之曲輪家の方はずっと小さく「家坪数〆百七拾四坪七分五厘」というように、本丸御殿の1/3の規模しかない。
(2)御殿の構成
このような広大な面積をもつ御殿の構成は南から北西方向に「御玄関」「御書院」「御殿」と続く大きな3棟の建物を中心として、北側に「御小納戸」「御湯殿」が廊下で結ばれ、これらの東方にある「御臺所」との間を埋めるように配された部屋が並び廊下で結ばれる複雑な構成になっている。
これらの建物は、平屋建が中心であり、2階になっている所はわざわざ「二階有」と注が入っている。2階のあるのは「御臺所」「釜屋」「料理之間」の一角である。
御殿の周囲には、番所が5ヵ所設けられていて、御殿の西半分は塀によって仕切られ、「御成廊下」「御殿」「御小納戸」「御湯殿」は厳重に区切られている。
また比較的空地のある東方には、南から北にかけての土塁に洽って、厩や小屋が建てられており、本丸内部は色々な建物が、所狭しと並んでいた。
さて、本丸御殿主要部の間取りは、「御書院」は御上段から下之間迄の4部屋が、「御殿」は御上段から御次之間迄の3部屋が、L字形に連なる2列型平面をしており、平面構成から見ると、少なくとも三浦家かその前の時代の形式と考えられる。
この御殿の建物や部屋の名称を見ていくと、普通の城郭殿舎とは少し異なる感じを与えられる。
例えば、主要部の名称で御玄関・御書院に続く建物を「御殿」といい、御書院との間の廊下を「御成廊下」と称していることは、一小大名の御殿としては異様とも思える。
また「御老中之間」「若年寄衆部屋」等のように、壬生藩の職制には見られない部屋がある。
その反面、藩政を行う上で必要な部屋、御用部屋や各役人の詰所が無に等しい。御殿への入口にしても、御玄関の式台のみで、内玄関や中之口といった通用口が見られない。さらに表向の部屋ばかりで奥向の部屋が見られない割には、台所が「御台所」「奥御台所」の2ヵ所あり、「煮立」「料理」といった食事に関する部屋が、本丸内に別棟として建てられている「蕎麦切小屋」「御肴小屋」「主水部屋御菓子拵所」などを含めて、大半を占めている。
これに対し二之曲輪家の方は、「居間」「寝間」といった部屋が見られるようになり、普通の大名の御殿らしい佇いを見せているが、ここでも奥向と考えられる部屋や藩庁の機能は見られない。
以上が御殿の構成であるが、大名の御殿としては特異である。それがどの辺りに由来するのか、次に御殿の歴史について見てみよう。
(3)御殿の歴史
御殿の歴史については、二之曲輪の方は全く触れられていないので、ここでは本丸御殿の歴史について詳しく見ていきたい。『城内間数』には、「右先御殿者」の書き出しで、「御殿者日根織部正様阿部豊後守様代ゟ有来り 古志摩守庚辰年御成當志摩守代戌子年被為成 然處発巳年焼失仕 巳亥年冬翌年之御成被仰出 御殿新規出来仕候得共御延引 発卯年四月被成候」と記されている。
このように日根野織部正吉明の時には既に存在したと記されており、先に触れた御殿の平面構成が比較的早い時期のものであるとの裏付けになろう。
この御殿は、次の阿部豊後守忠秋の代を経て、古志摩守=三浦正次の時、庚辰年=寛永17年(1640)と當志摩守=三浦安次の時、戌子年=慶安元年(1648)の2回、将軍家の御成を迎えている。
ところが癸巳年=承応2年(1653)に焼失してしまっている。この火災について『厳有院殿御実紀』巻五「承応2年2月11日」の条に、「この九日、三浦志摩守安次が下野壬生の城火災ありて城内ことごとく焼失せしよし注進あり」と記されており、本丸御殿だけでなく城内を焼き尽した大火であったことがわかる。
そんな中、巳亥年冬=万治2年11月17日(厳有院殿御実紀巻十八)に翌年の日光社参が仰出され「壬生城主三浦志摩守安次…御饗応の事奉はり…」ということになり、焼失した御殿の再建が行われたが、この社参は延期となり、癸卯年=寛文3年4月に実行され、再建の御殿に将軍家のお成りがあった。
このように本丸御殿は、将軍家の日光社参と関係があったことが窺える。それは次の箇所からも明らかである。
「右御殿前々よ里御成以後者、御縁庇其外取附候所者取放差置、御成被仰出候節取附、塀其外新鋪仕候二付、當分茂大形御本屋計差置、端々取々破損取繕不申候」
ここには、将軍家の旅館としての御殿、という性格が色濃く表われている。将軍家の日光社参は、元和3年4月に始まり全部で19回を数える。そのうち壬生宿城は5回あるが、寛文3年を最後に2度と壬生城に泊ることはなかった。
したがって、将軍家の旅館としての御殿、という使命はなくなったわけであるが、「御本屋計差置」かれた御殿がその後どうなったか、直接物語る史料はない。三浦家転封の時の記録『壬生城渡之覚』にも、城米蔵や番所のように引渡す建物としては、本丸御殿の名は見られず、わずかに「本丸屋根塀瓦ふき」とのことから、存在していたらしいことが窺えるのみである。
その後元禄8年から壬生に在城した加藤家に、本丸御殿を描いた絵図が残されていたりさらに次の鳥居家の代になって久しい、文化5年の城修理伺と一緒に本丸・二の丸・三の丸の規模を書留めた史料があるが、本丸には「御屋形五百六十三坪」というように、三浦家当時と同じ建坪の御殿が存在していたようになっている。
したがって、この本丸御殿の歴史は、江戸初期の日根野吉明の代から始まり、将軍家の旅館としての使命を担い、その役目が終わった後も、すぐには破却されずに江戸後期まで維持されていた可能性がある、ということになろう。
おわりに
三浦家が城主だった頃の壬生城の姿に迫ろうとの試みであったが、紙数の割には明らかにし得た部分は少ない。蝸牛の歩みではあるが、これからも調べを進め埋もれている城の姿を明らかにしていきたい。
この企画展を契機として、壬生城がより多くの方に関心を持たれ、その歴史や保護について考えていく上で、拙稿がその手助けとなれば幸いである。
最後に本稿をまとめるにあたり、史料の閲覧等で便宜を図っていただいた資料館に対し厚くお礼を申し上げる。
※参考文献
・日本建築の観賞基礎知識 平井聖、鈴木解雄著 至文堂
・日本史小百科 城郭 西ヶ谷恭弘著 東京堂出版
・日本城郭大系別巻Ⅱ 新人物往来社
・徳川実紀 吉川弘文館
(地方史研究同志会々員)