はにわ「人」と「まつり」と 水野正好

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食(く)え食(く)え食(く)ったら帰(かえ)れ
 いやな奴じゃ、とっとと帰れ。とはいいたいが、相手が相手。こういった時にはたらふく食わせるからおひきとりを・・・というのが古今を通じての日本人的発想。埴輪の中にもこの想いを地でいくものがある。円筒埴輪とか朝顔形埴輪と呼ばれている埴輪がそれである。
 「埴輪美」の代表選手である人物や動物、家や盾、そうした埴輪が美術全集を占領するなかで、刺身のつまのようなひどい扱いをうけているのが、この円筒埴輪、朝顔形埴輪であるが、埴輪の歴史は、円筒埴輪や朝顔形埴輪にはじまり、その最後もこの埴輪で幕がおりることや全国各地の非常にたくさんの古墳にたてられていること、一つの古墳の中でも、「埴輪美」の代表選手である美々しい埴輪の何倍いや時には何百倍という量が使われていると教えられたら、一段とこの埴輪のもっている価値が判るというもの。今日では、朝顔形の埴輪は囗の広い壺を写したもの、円筒形の埴輪は丸い底ですわりの悪い壺などをのせる台=器台をモデルにしたものと考えられている。壺、受台といった宴会用の食器具の集り、それがこの種の埴輪の世界なのである。
 こうした埴輪は、古墳の裾(すそ)などに一列にまるで玉垣(たまがき)のように鮮やかに連なっているのであるいろいろな食べ物がずらっと一列に見事にならべたてられた様子を頭に描いてみるだけでもそれはそれは盛観である。しかも、裾、中段、上段と三段に、しかも円墳なら三重の円になるように、前方後円墳なら三重の前方後円形になるように三列になっているし、有名な仁徳天皇の御陵とされている古墳の場合なら、さらに外堤に二重、中堤に二重、内堤の上に二重・・・少なくとも九重の食べ物をもる埴輪の列があったのではないか・・・そう考えてくると、古墳はまさに食べ物の山であり、食べ物の中に埋ってしまうのである。
 段築や堤や堀、それは登りがたく越えがたい、物理的な「遮(さえぎ)り」である。段築や堤にならべたてられ、八重、九重に死者をとりまく食べ物の連なりは、よりくる者への「遮り」の意図に一つの思想を与えるものであった。よりくるものにおひきとりを願おうという必死の心根が生み出した「反復の軌跡」なのである。
 
何(なに)の故(ゆえ)にか笑(わら)う
 よりくる鬼魅をはらい、厳重にまもられる古墳とは何であろうか。死者を葬るのだから墳墓には違いない。しかし、私には前方後円という例のない形にも示されるように、王権のもつ霊を、死した王から新しく立とうとする王が継承する重要な儀式の場、後世の践祚(せんそ)即位・大嘗(おおなめ)祭と呼ばれる重要な儀式の場だと考えている。王霊の継承を後円部で終えた新しい王は、前方部におりたって即位を公布する。まさに古墳はそうした儀式の場として、聖性を獲得する場であると考えているのである。
 それだけに、そこで行われた儀式はものものしく、多くの政治機構がそこに集る。人物埴輪や動物埴輪の世界は、そうした儀式を「形」としてのこしたものなのである。
 その中に、極めて不謹慎な人間がまじっている。目を細め、けたけた笑っている人間がそれである。かつては、人物の埴輪や動物の埴輪は、死者を送る葬列を表しているのだとされたが、厳粛な儀式の中での笑いは、果してそうした不謹慎、不敬の存在だったのだろうか。「それは何の故に笑うのだろうか。」と問うことが必要である。
 厳粛な儀式の中で「笑い」の表情を湛える埴輪は、よく観察すると一つの大事な約束ごとをもっている。それは、笑いが盾をもつ男子の埴輪と、鎌や鍬をもつ男子の埴輪にかぎられるという約束ごとである。
 盾をとる人物の埴輪は、人物埴輪の中では非常に変った埴輪である。円筒に盾をはりつけ、筒の上に顔をくっつけただけの極めて簡略な形、手や足もつくられないその姿は、この盾をとる人物の位置がいかに低いかをよく示している。まるで盾と笑いと異様さだけが息づいているかのようであり、笑いと盾の異常な頭がたがいに関連し、何ともいえない奇妙な雰囲気をつくりだしているのである。
 人物の埴輪がもつ盾とは別に、盾はそれ自身、埴輪として、盾形埴輪として作られている。それはすばらしく立派なものである。それだけでなく、その置かれる場所も、古墳の中で最も重要な秘儀のおこなわれる後円部の頂上や前方部先端の頂上を占めている。盾は表を赤く塗り、常に外側に向けてたてられている。盾を並べ列ねることは、よりくるものを防ぎ、かつ威(おど)すといった二面の働きをフルに発揮することとなる。こうした埴輪の盾に流れる想念は、ただちに盾をとる人物の上にも及ぶだろう。こうした人物は境を守るものではなかったか。平常は王の居館の境にあって最も出入りのはげしい門を守ることに、重大な任務が与えられていたとするのが妥当ではあるまいか。
 境を守る、門を守る人達は門部と呼ばれている。この門部の仕事の中で注目されるのが「笑い」である。諸門の左右を守るのは大伴、佐伯、久米氏、隼人(はやと)。その久米氏の来目歌には「今、来目部が歌ひてのちに大いにわらふは、これその縁なり」という極めて重要な註があり、歌舞に「笑い」が伴っていることがはっきりする。笑いは境に強く関連するものであった。天岩戸ごもりで冥闇におちいった世界を光明世界に転換させたのも、神々の「笑い」の力による。盾で堅めた境で、なおより来るものを一歩たりと内に入れじと守り抜き、「笑い」によって却け新しい世界を作り出す、そうした意志が門部には要求されているのである。何の故に笑う、その問はここで答を得るであろう。践祚即位大嘗祭にも当る埴輪祭式の場で百官百職がその職掌の誓約といった形で職掌霊を王にとりつけねばならない。門部は、その部の職掌を、盾と笑いと異形で王に示したのである。心からなる笑い、戦いにうち勝った喜びではなく、よりくるものを却ける、門部の笑いは王にささげられる笑い、つくられた笑いであった。その故にこそ、笑いが許され、堂々と百官百職の見守る中で演じられたのである。
 
胸乳(むなち)かき出で裳緒(ものひも)をほとに押(お)し垂(た)れ
 門部の舞の中に生きている笑いと係わるのは、農夫の埴輪-鍬や鎌をもった農夫の中の笑いである。
 百姓髪で百姓美豆良(みずら)、肩に鍬をかつぎ、腰に鎌をさす、すぐに農夫と判る作りの人物埴輪である。足や着物を表現しないという極端に簡単な形でありながら、実に表情は豊かだし、ポーズも楽しいのがこの農夫の埴輪である。そうした点でも盾をもつ埴輪とよく共通しているのである。践祚即位という大事な儀式の場に農夫が登場しているのであるが、その農夫の中にはとてつもない人物がいるのである。何人かが集まって笑ったり、踊りはやしたり、時には立派な男性のシンボルをぬっと見せたり、はじらいもなく腰をひねり女性のシンボルをあらわにしたり、いやいや、頭に水壺をのせたり、背に赤ん坊を負ったり・・・といった風にあまりにも儀式にはふさわしくない人物が多いのである。武人群や文人群、或いは盛装した女性群の埴輪とはすっかりちがった雰闘気がそこには漂っている。一つの儀式の場にまさに厳粛と卑猥の二つの世界が見事に息づいているのである。
 こうした農夫の埴輪を見ていると、さきの門部と同様、豪族の王につかえる田部の姿が、田舞の存在が浮び上ってくる。田部が田舞を演じる、そのさまかたちの表現ではないだろうか。
 鍬を肩にする田人が春さきの田を耕し、種子を下す。男性のシンボルをつきたてた田人がこの種子に芽ぶく力を与える。踊りはやす田人が、この芽ぶく力を一層につよめる。やがて素裸の男と女の田人が生まれたままの姿で向いあいかけあい、秘事をくりひろげ、種子は早苗として誕生し、まさにクライマックスとなる。早苗は赤ん坊に見たてられ、「水の女」のもとで背負われはぐくまれどんどんと生育していく。やがて秋、鎌を手にする田人は、この稲を刈りとるさまを演ずる・・・まさに一年の農事暦を一気に演ずるのが、埴輪の田舞であったと思うのである。
 男と女の素裸のかけあい、秘事が行われている時、「待ち」にある農夫たちのなすべきことがこの笑いであったといえよう。ここでも、笑いは地にまかれこもっている種子に、或いはまさに苗として誕生しようとする種子に生命を与え力をつけようとする働き、いいかえれば境界をこえる力として役だっているのである。まさに門部の笑いと通ずるものがそこにあるといえるだろう。
 いま一つの「性」は、坐り琴をひく男子のそこにシンボルを露わにしたもの、あるいはあきらかに高い位にあるはずの女性に、ヘラでシンボルをしるした埴輪がそれである。いずれも門部や田部とはちがい、すぐれて秀でた人のそれなのである。ヘラでシンボルを記した女性埴輪は意須比(おすひ)とよばれる特殊な着衣をつけており、ふつうは巫女(みこ)とされる女性である。身にしめ縄をまとっているのもそうした性格の一端をしめすものと思われるのが、その裳にわずかにかくれるかとされる場所にシンボルがかかれているのである。踏み舞えば、その秘所がちらりちらりと顕れてはかくれる。まさに、この埴輪はそうした意識のあることを物語っているのである。
 『古事記』に、「天の宇受売(うずめ)の命が天の石屋戸に覆槽(うけ)伏せて踏みとどろこし、神懸りして、胸乳(むなち)掛き出で、裳(も)の緒を陰(ほと)に押し垂りここに高天(たかま)の原動みて八百万(やおよろず)の神、共に咲ひき」とあるさまは、まさにこの埴輪の姿にぴったりである。同様なことは琴ひく男子にもあてはまるであろう。琴が単なる楽器というよりも沙庭に神を迎えるもの、神を依り憑かせるものであったことはよく知られているし、まさに神がかりをもたらすものでもあった。胸乳かき出、裳緒をほとに押し垂れて舞い踊り、またそれをはやす人達の動きがあり、笑いが誕生し、新生の気がみなぎるのである。しかし、御琴弾きする男性やすぐれた神がかりの女性の姿の中には、笑いだけではない、より複雑な神託をきく、神を迎えるための意図、神の示現の表示としての露わさがよみとれるのである。
 
牡鹿(さおしか)の角挙(つのあ)げて吾(わ)が舞(ま)えば
 埴輪には人物だけでなく動物の世界もある。数多い動物の中からえらばれていくつかの動物だけが埴輪として作られている。蛇や蝮(まむし)や虫、狐や狸、数え上げればきりがない程、埴輪にならなかった動物は多い。埴輪となった動物は一体どうした基準から選び出されたのだろう。埴輪になった馬、水鳥、猪、鹿、鶏、犬、あとは極めて稀な魚、猿、牛ぐらいであろうか。
 埴輪の馬と水鳥は非常に多く作られている。馬は、馬飼人が連れそっている状況で発見される場合がある。裸馬、飾馬いずれにせよ、馬飼部の職掌を示すものとしてこの場に出ているのである。埴輪馬の強調された踏み立てる脚爪、ふりたてる耳は、まさに磐根に踏み堅めた宮の御柱、天下をしろしめすしるしとして想念されていた。馬飼部は、馬を牽き連ねて忠誠を誓ったように、水鳥も、また鳥飼部の存在と関係している。水鳥は白鳥が選ばれており、霊のこもるそうした白鳥を馬と同様、ひき連ねる中で、鳥飼部は王につながったのである。馬と白鳥、換言すれば馬飼部と鳥飼部が一つの対の構造をつくっているのである。祝詞(のりと)の中にも、馬と白鳥の対の構造が見られるが、埴輪の世界には一層はっきりダイナミックに強くこの二つの動物とそれをとりまく集団が生きていたのである。
 猪・鹿の埴輪も面白い。猪には、矢のつきたった埴輪がみられる。矢負いの猪をなぜ、埴輪としてつくったのか。ここに想い出されるのが腰に猪を下げた一つの人物埴輪像の存在である。矢負いの猪にしても、猪を腰にする人にしても、いずれも埴輪で表現された践祚即位大嘗祭の場にのぞんでいるのである。とすれば、こうした猪の背景に猪を管理する人達の集り一猪飼部の動きが感じられるであろう。王として行われねばならない狩猟の場にも、猪は欠くことのできないものであったことは言うまでもない。
 同様なことは鹿についても言える。鹿は雄、雌をとわず埴輪としてつくられている。鋭い耳、岐(わか)れた角を作り、意識が牝や仔鹿よりも牡鹿にあることを語っている。ここに一点極めて大切な視野をひらく埴輪がみられるのである。それはひざまずき、前をじっとみつめる一人の男子像である。その男子は、頭に帽を被(かぶ)っている。ぴんとのびた耳、折れてはいるか太くたくましい角、まさに、その形は鹿の頭である。彼のたちあがる姿には、
 あしびきの、此の傍山(かたやま)の牡鹿の角挙げて吾が舞へば、旨酒、餌香(えか)の市に、直(あたひ)もちて買はず、 手掌もやたらに拍ち上げ賜はね。吾が常世等。
 と歌い鹿の舞を舞った室寿ぎの日の袁祁(おけ)王の姿が重なる。『万葉集』にも、有名な乞食=ほかひびとの歌があるが、中に「わが角は御笠の料、わが耳は御墨の坩(つぼ)、わが爪は御弓の弓弭(ゆはず)」と歌い、さらに「わが身一つに七重花咲く、八重咲くと、日(もう)し賞(はや)さね」といった王にその身を棒げるだけでなく、王のために身一つで七重八重の花咲くを願うといった心根が歌われており、猪飼部と同様、鹿飼部といった人の動きが浮び上ってくるのである。
 最近、興味ある一例の埴輪像が紹介された。頭に鳥をつけた男子の埴輪像である。右手で来い来いとよびかけ、左手に餌籠を抱く面白いポーズをとっている。この鳥は鳰鳥(にほどり)=かいつぶりだという見解もあるが、鳥飼部のポーズである。おそらく、こちらへ来い来いと招きよせる動作が霊よばいに重さなるところがこの埴輪の一つの力点であろうが、一方では鳥飼部が鳥を飼い餌を与えている様を舞として演じているものともとれるのである。
 鳥・馬・猪・鹿飼部といった各々の「部」はそのシンボルをともなって舞を演じ歌う、その中から王が誕生してくるのである。換言すれば動物の埴輪は、王をとりまく政治機構、組織のシンボルであったために形象化されたのであり、動物の世界にも深く政治という楔がうちこまれていると私には想えるのである。
 田舞といい、鹿舞といい、本来は田で演じ狩場や飼場で演じられるものであり、田の実や狩の獲物をめぐる舞であったろう。しかしそれはやがて村の中での予祝となり、さらにそれを演ずる田部や鹿飼部、鳥飼部の職掌のシンボルとなり、さらに転じて、王に職掌の忠誠を表現するための重要な行為となるのである。所有することが政治であることを埴輪芸能は端的に示しているのである。
 
主屋(おもや)は大(おお)きく納屋(なや)は小(ちい)さく
 埴輪の中でいま一つ、極めて大きな位置を占めている一群がある。家形埴輪である。
 一つの例として群馬県赤堀町茶臼山古墳をあげてみよう。後円部の頂上、前よりのところから、8棟の家形埴輪が発掘されている。堅魚木を上げた切妻造の主屋が1、網代をのせた切妻造の副屋が2、切妻造の倉3、四柱造の倉が1、切妻造の納屋が1棟というのがその内訳である。まさに、当時の主要な建物のオンパレードである。
 主屋、副屋、倉、納屋という4つの機能をもった建物群の大部分が壁をもち窓を作る極めて立派な建物であり、当時の一般の人々が地を掘り窪めた竪穴住居に住んだと考えられるにの対して見事な対照を示している。貴族なり王にかかわる建物群であることがしられるであろう。
 この4種8棟の建物は、それ自体、非常に面白い事実が指摘される。それは建物の規模の語る事実である。後藤守一先生の復元によれば主屋、副屋、倉、納屋という4種の機能ごとの建物が、それぞれに一定のきまりのある規模をもっていることである。主屋と納屋は1棟しかないが、副屋2棟なり倉の4棟の寸法は、それぞれ副屋は副屋として長さ50糎に、高さ40糎強、倉は4棟ともほほ長さ35糎前後、高さ35糎前後につくるよう当初から計画されているようである。発註者は、アトリエに細かく主屋、副屋、倉、納屋の寸法を定めて指示していたことを教えているといえるだろう。それだけでなく、堅魚木なり網代もこれに相関しており、茶臼山古墳の場合、家の機能と規模、構造が非常にはっきりと対応しているのである。
 重要な建物は大きく、付属する建物は小さく、各建物に一つの政治的なまとまりを与えているのである。綿密な現実の政治的な貫徹のみられる建物を、計画的に、意図的に表現しているといえるだろう。現世での政治的な家の在り方がそのまま政治として埴輪家の世界にまで持ちこまれているのである。
 
屋敷(やしき)と王(おお)のよみがえり
 こうした屋敷は一体何のために、埴輪としてつくられねばならなかったのだろう。ここで、いま一度、茶臼山古墳をふりかえってみよう。
 この古墳の場合には別に、食物を供える高坏の埴輪、極めて高貴な人が坐るべき椅子の埴輪が家形埴輪と一緒に発見されている。後藤先生は、屋敷の前に高坏をすえ、さらに先に椅子の位置を考えておられるが、そうすれば、まさにこの屋敷は、厳粛な饗宴の場ということになもだろう。誰がこの椅子に坐るのであろうか。この椅子は、まことに堂々たるものであり、あでやかな装いを示している。死者の生前の住いを埴輪としてつくり、この住いの中で種々、死者との間に秘儀を行ない、その霊を承け、ついで、その秘儀の場から出でて王権に深くつながる豪華な椅子に坐し、高坏にもられた食物を通じて死した王との間で聖なる食事をとり、結果王権が継承されるまさにそうした重要な共食の儀礼がそこには展開したものと考えられるのである。それだけではなく新たなる王が即するとき、その即位を宣する前方部にも家形埴輪が配置されるのであって、天皇即位とともに旧都を廃し、新たな皇居に都する1代1都の風とも関係する極めて興味ある埴輪なのである。
 時には屋根に鳥をとまらせた家屋埴輪すらあるが、それは、新しい屋敷の誕生、大殿祭にも通じるよろこびの表現なのである。有名な家屋文鏡とよばれる鏡にも、4種の家が鋳出されている。やはり祭りの日の屋敷の有様が描かれている。幡がたてられ、屋根には鳥がとび、とまっている。まさにこうした祝祭の光景が埴輪にも見られるのである。
 こうした家形埴輪群を含めて、死者が眠り新たなものがその霊をひきつぐ、そういったもっとも秘すべく、最も厳重に守護されるべきところが後円部の頂部なのである。円筒埴輪の食え食え食ったら帰れの表現だけではなお不安、そこで盾や蓋、短甲や大刀、そういった威儀、威武の具に属する埴輪が、特にずらりと並び、円筒埴輪とともに、この場を守るのである。死者を守るだけではないのである。そうした守護として威儀、威武の埴輪や円筒埴輪が「埴輪」として誕生したのである。
 政治の継承、そのために、いかに政治が細心の心くばりと、整然たる論理、膨大な人力や物品の消耗を必要としたかが、ここに浮び上ったといえるであろう。極みない大きな消費その中に政治がひそんでいるのである。貧窮と苦役、王者からすれば、それも一種の消費にすぎなかったといえるであろう。
 埴輪の祭式は夜の祭式であった。証拠となるべき朝を告げる鶏の埴輪がある。鶏の告げるその声すらも、祭式のきちんとした終了、手つづきを誤たず、見事にフィナーレを飾ったことを示すものとして、まさに政治の鮮やかさの「意味」として存在しているのである。鶏鳴の知らせる朝、その白々しさの中に、夜、狂おしいばかりに動いた政治が、唯一の遺産として埴輪という形象を日にさらし、明日にその形を伝えたといえるのである。  (奈良大学教授)
 
 本論は「埴輪世界にみる古代日本人」(『歴史読本』21-11)を一部改稿したものである。