天地根元造家形埴輪は、家屋を模した埴輪の一種であり、関東地方から出土するとされてきた(第1図)。そもそも、この埴輪は壁面を持たない切妻の住居を表現している家形埴輪として高橋健自氏によって名付けられたものである。しかし、この埴輪が何を表現し、どのような系譜の流れの中で生まれたかについては現在でも定説がない。そこで、天地根元造家形埴輪が何を表現しているかについて考えたい。
2.研究史
ここでは、何を表現したかを中心に、天地根元造家形埴輪に関する諸文献を年代順に見ていくことにする。
1893年 若林勝邦「下野足利に於いて近頃発見せる埴輪土器」『東京人類学会雑誌』8-89
足利公園地の古墳の周囲から出土した埴輪を紹介しているが、まだ家形埴輪とは認識しておらず天地逆に図示している。
1895年 八木奘三郎「下野国下都賀郡羽生田の古墳」『東京人類学会雑誌』116号
栃木県壬生町茶臼山古墳出土例を紹介しているが、何を表現しているかについては、触れていない。
1902年 八木奘三郎他「武蔵国大里郡本郷村古墳調査報告」『東京人類学会雑誌』17-193
本郷村出土のものを埴製品として紹介しているが、家形埴輪としては理解していない。
1908年 大野雲外「家屋形埴輪樹物に就て」『東京人類学会雑誌』273号
ここで始めて、家形埴輪として理解している。
1909年 和田千吉「埴輪より見たる仏教以前の日本建築」『考古界』第8篇第1・4号
大野氏の研究を受けて、家の屋根を模したものと述べている。
1910年 八木奘三郎『考古精説』
壬生町茶臼山古墳出土例は、大盾を模したものであるとし、天地逆に図示している。
1919年 高橋健自「遺物上より見たる上古の家屋」『歴史と地理』第3巻第2号
この中で始めて、この種の埴輪について、建築家の想像する所の壁面をもたない穴居の切妻「天地根元宮作」を表現していると指摘している。さらに、家屋の変遷について、天地根元宮作を最古とし、切妻→四柱→方形・入母屋の順に新しくなると考えている。
1923年 関野 貞「原史時代の建築」『中央史壇』第6巻第3号
切妻屋根形のものとして捉えている。
1925年 高橋健自「遺物より見たる上古の家屋」『古代文化研究参考文献集』第5輯-第6輯
この論文は大正8年の前掲論文に加筆したものである。ここで、天地根元宮作のものと、柱や壁面をもつ切妻式家とについて、「前者は一般民衆の住居であり、後者は宮殿及至貴族の邸宅を示した」と述べている。
1931年 後藤守一 「上古時代の家」『史潮』第1巻第2号
高橋氏の研究を引き継ぎ、佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡に表現された竪穴住居を根拠にして、天地根元造は竪穴の上に立てられた原始的家屋を表していると述べている。
1933年 後藤守一『上野国佐波郡赤堀村今井茶臼山古墳』
この報告の中で後藤氏は家形埴輪全般にわたって研究を行い、家形埴輪研究の基礎を成している。天地根元造についても集成を始めとし、その年代的位置付けも試みており、いくつかの指摘を行っている。ここでも、前掲「上古時代の家」の見解と同じく天地根元造家形埴輪は本来の家を写したと考えている。また、天地根元造を堅魚木・棟の板格子・樹串から7類に分類し、他の家形埴輪(切妻・四柱・原始入母屋)に比べると、天地根元造家形埴輪は「家としての観念から愈愈遠ざかる」として、最も降るとした。そして「其の盛行したのは古墳時代の末期に比定して差支えなかろう。」と指摘している。
1959年 西谷真治「住居と集落」『世界考古学大系』3
「関東地方には、屋根だけを表現した埴輪があるが、これが竪穴建築をしめすものか、あるいは屋蓋部をもって、家屋全体を象徴したものかは、まだ決定しがたい。」と述べている
1972年 坂田 泉「家形埴輪にみられる建築形態について」『東北大学建築学報』第14号
天地根元造家形埴輪について、千葉県経僧塚古墳出土例から類似入母屋造家形埴輪の棟の部分と考え、「群馬県等で広く発見された異形の切妻屋根のみの埴輪はこの切離すことのできる屋根上半部ではなかろうか。」と推定している。さらにこの種の家形埴輪の系譜について、棟と下半部が離脱する奈良県三宅村例、和歌山市大谷山22号墳から「恐らく畿内からその形式が伝えられたのであろう。」と指摘を行った。
1974年 村井巖雄〔埴輪と石の造形〕『古代史発掘』7 ※「巖」:正式には「山冠に品」
「切妻造の屋根だけをかたどったもの」とした。
1977年 春成秀爾「埴輪」『考古資料の見方<遺物編>』
前述の坂田氏の見解を全面的に肯定している。
1977年 増田逸郎『塚本山古墳群』埼玉県教育委員会
塚本山第15号墳出土の天地根元造家形埴輪について、「側まわりの無い竪穴住居を表現」と述べている。また、棟の上の丸筒状のものを、吹き抜ける円筒構造の煙突とし、室内で火を多量に使用する工房建築と考えている。
1978年 長谷川勇 『御手長山古墳発掘調査報告書』本庄市教育委員会
出土した天地根元造家形埴輪について、「側まわりの立ちあがりがなく、軒先が直接接地した竪穴式住居を表現している」と述べ、さらに、「接地部分の平面は正方形に近い長方形であり、竪穴式住居の平面に似ており、妻の部分に出入口、もう一方に竃を設けるとすればまずは無理のない構造であろう。」と加えている。また、棟の上の丸筒状のものについて、「うだつが棟につき出し、その周囲にも、屋根と同じように葺きあげ、四方へ垂れ下がった座蒲団状のものを雨水よけとして設けたものであろう」と指摘している。
1979年 『開館記念展「群馬の埴輪」』図録 群馬県立歴史博物館
解説文の中で、伊勢崎市上諏訪町出土の天地根元造家形埴輪について、「いわゆる竪穴式住居の屋根を表したものであろう。」と述べている。
1988年 清水眞一「もう一つの屋根飾り」『考古学と技術』
「…すべて屋根部分しか発見されていない。関東地方では、古墳時代の大半が竪穴住居群であり、その埴輪化とも考えられるが、全国的な分布を持つものではない。」と指摘している。
3.研究史上の問題点
簡単に天地根元造家形埴輪の研究について年代を追って見てきた。この結果、天地根元造家形埴輪が何を表現しているかについて、現在大きく三つの考え方があることが判明した。
①高橋健自氏が「遺物上より見たる上古の家屋」の中で、「天地根元宮造家形埴輪」という用語を付けた際の考え方を受け継ぎ、この種の埴輪が壁面をもたない穴居の切妻(竪穴住居)を表しているという考え方である。
②切妻造家形埴輪の屋根だけを表現したという考え方である。
③この種の埴輪は入母屋造家形埴輪の切離すことのできる屋根上半部にしかすぎないとする見方である。
次に、どの説がもっとも妥当性があるかを検討してみたい。
4.天地根元造家形埴輪とは何か
まず、竪穴住居を表現しているという説については、発掘調査で確認できる竪穴住居の上屋構造が天地根元造家形埴輪のように棟が幅広い形状を示すとは考えられないこと、さらに出入り口や窓の表現も欠くことから、成り立たないであろう。
切妻造家形埴輪の屋根だけを表現したという考え方も、東国では古墳時代後期に切妻造家形埴輪が盛行しないこと、天地根元造家形埴輪と呼ばれるものは切妻造家形埴輪と形態が異なることから支持し難い。
やはり、天地根元造家形埴輪と呼ばれたものは入母屋造家形埴輪の切離すことのできる屋根上半部を表現しているという説を支持したい。その理由は以下の通りである。
まず、古墳時代後期の入母屋造家形埴輪の屋根上半部と天地根元造家形埴輪とは、棟の厚みがなく、棟が長く、その形状が逆台形を呈し誇張化されており似ていること。さらに、文様としてわらび手文、三角形文を多用し、棟に堅魚木を持つものと、板格子を持つ2タイプが認められるなど、共通する要素を持つからである(第4図)。
次に、天地根元造家形埴輪と共伴した円筒埴輪・形象埴輪との高さを比較すると、ほぼ同一か、やや天地根元造家形埴輪が低いことがわかる。一般に、家形埴輪は円筒埴輪や他の形象埴輪より高いことが普通である。この点からして、本来はもっと高いことが考えられる。例えば、栃木県壬生町茶臼山古墳例で見ると、天地根元造とされた家形埴輪の高さが67.2cmあるのに対し、円筒埴輪は底部径47.6cmの大型品であり全形を窺えるものがないが、優に1mを超すものと考えられる。そうすると、家形埴輪としては円筒埴輪よりかなり低くなり、不自然である。
さらに、このような切離すことのできる屋根上半部のものは、これまで、千葉県経僧塚古墳出土例だけしか見つかっていなかったが、北関東でも4例だが天地根元造家形埴輪とされた屋根上半部と組合う下半部と考えられる埴輪を確認できた(第2図)。
第2図 組合式入母屋造家形埴輪下半部(1/10)
①群馬県佐波郡内出土
②群馬県邑楽郡大泉町出土
③群馬県藤岡市大字白石(旧多野郡美土里村)出土
④群馬県伊勢崎市豊城町大字八寸権現山(旧佐波郡殖蓮村)出土
ここに挙げた③・④の家形埴輪は、かつて後藤守一氏によって四柱造家形埴輪と考えられ、美土里式とされたものである(後藤1933)。しかし、上部の張り出し部は切離すことのできる屋根上半部を受けるための可能性が高く、経僧塚古墳出土例の中にも、このような張り出しを持つ家形埴輪がある。また、①も同様なタイプであり、張り出し部の上部は調整がやや下半部に比べると、雑になっている。註1
特に、④群馬県伊勢崎市豊城町大字八寸字権現山例(第2図4)は共伴して天地根元造家形埴輪(第1図)が出土しており、おそらく、この二者は組合って第3図1に示すような入母屋造家形埴輪になると考えられる。
以上のような点から考えると、天地根元造家形埴輪とされたものは、入母屋造家形埴輪の屋根上半部を表現したものと考えるのが妥当であり、単に下半部が見つかっていないか、認識されないだけである。そこで、こうしたものを組合式入母屋造家形埴輪とする。註2
5.下半部の分類
さて、このように屋根上半部を支える入母屋造家形埴輪の下半部が存在することが明らかとなった。この下半部分もその造り.組み合わせ方から、4タイプに分けられる。
A 張り出しによって屋根上半部を支え、差し込む部分が徐々に細くなるタイプ(第2図3)
B 張り出しによって屋根上半部を支えるのはAタイプと同じだが、差し込む部分がより細く円筒状を呈するタイプ(第2図2)
第3図 組合式入母屋造家形埴輪(1/20)
第4図 入母屋造家形埴輪(1/20)
C 差し込む部分がAタイプと同じ形状を呈するが、張り出しによって屋根上半部を支えるのではなく、本屋根に段差を設けて支えるタイプ(第3図2)
D 屋根上半部に下半部を差し込まず、ただ乗せるだけのタイプ。東国で未確認(第5図2)
なお、A・Cタイプと組む屋根上半部は通例の家形埴輪に見られるように妻側に板状のものを張り付けたものと考えられる。一方、Bタイプと組む屋根上半部は埼玉県大里郡川本町畠山出土(第8図30)。同本郷村山河稲荷塚出土例(第8図31)のような構造を採ると考えられる。この結果、たとえ下半部が出土していなくとも、組合うタイプはほぽ推定できる。例えば、壬生町茶臼山古墳から出土した組合式入母屋造家形埴輪の屋根上半部も、その形状から、組合う下半部は北関東に見られるAタイプであった可能性が高い(註3)。
6.組合式入母屋造家形埴輪の分布と系譜
組合式入母屋造家形埴輪は関東地方にのみ分布するのではなく、他地域からも出土する。主なものを集成すると、全国で32例となる(表参照)。組合式入母屋造家形埴輪を簡単に定義付けると、屋根上半部が分割製作され、組合式になっていることである。なお、東国の後期古墳から出土する誇張化された組合式入母屋造家形埴輪の場合は破片からも組合式と認定できるものがある。それは、棟上(堅魚木上)に土製の樹串が立つ、棟上に土製の中空の棒が立つ、棟上に半環状のものが付くなどである。このような特徴を持った家形埴輪は組合式と考えられる。そして、この種の分布は今のところ関東に限られているので、東国型の組合式入母屋造家形埴輪と呼びたい。
次にその系譜については写実的なものが畿内から出土しており、東国の組合式母屋造家形埴輪については、坂田氏が先に指摘したように畿内からの影響を支持したい。組合式入母屋造家形埴輪は畿内では大阪府高槻市今城塚古墳を始めとして、6世紀前後には既に出現している(第5図1)。
第5図 畿内出土の組合式入母屋造家形埴輪(1/20)
一方、東国でもっとも古いものは、6世紀中葉の群馬県塚廻り4号墳出土の家形埴輪であると考えている(第6図)。これには棟上に孔があいており、いまのところ、棟上に孔を持つものはすべて組合式入母屋造家形埴輪であること。また、屋根の流れが急であり、組合式入母屋造家形埴輪に良くみられる三角形文を用いていることからみても、組合式になる可能性は高い。このように、東国では6世紀中葉前後に導入された後、6世紀後葉から末葉に盛行している。
なお、北関東では低位置突帯円筒埴輪と共伴する例が多く、家形埴輪を製作した埴輪工人を考えるうえで興味深い。
また、注意を引くのは組合式入母屋造家形埴輪には黒斑を持つ野焼きのものがないことである。このことから、組合式入母屋造家形埴輪の創出はそのまま窖窯で焼成を行うには大きすぎるために分割する必要が生じたことに因ると推定しておきたい。実際、組合式入母屋造家形埴輪の多くはきわめて大型であり、実に大阪府今城塚古墳例などは組合うと高さが約165cmにもなる大型品である。東国型の中には、これを超すものもあると考えられる。例えば、栃木県壬生町茶臼山古墳例は、群馬県藤岡市白石出土例(第2図3)を参考に復元すると180cm前後になると考えられる(第7図)。
7.おわりに
後藤守一氏、坂田 泉氏の業績に導かれ、従来、天地根元造家形埴輪と呼ばれた埴輪について検討を加えてみた。その結果、組合式入母屋造家形埴輪の屋根上半部にすぎないことを確認するに至った。こうした組合式入母屋造家形埴輪は関東地方にのみ分布するのではなく、畿内を始め他地域にも分布する。とは言え、他地域には関東にみるような著しく誇張化されたものはない。そこで、従来、天地根元造家形埴輪と呼ばれた誇張化の進んだ家形埴輪を東国型の組合式入母屋造家形埴輪としたい。
さて、東国の形象埴輪の最も大きな特徴は実物の形状を離れ、独自な形態をとることである。すなわち、畿内をはじめとする他地域では表現が拙いものがあっても、当時存在する事物を写しとることに意を費やしていた。これに対し、東国では古墳時代後期になると、本来の形状を離れたものが現れることになる。家形埴輪はその最たるものである。形象埴輪のうち、最初に登場し、首長霊の依代としてもっとも重要な役目を占めたにもかかわらず、かなり形式化が進むことになる。
これは、古墳時代後期において、東国が政治的・文化的に畿内の強い影響下にありながら、いまだに独自の文化圏を持っていた現れの一端を示すと考えている。
註1 実見及び写真掲載については、相川考古館・相川之英氏の御高配を頂いた。
註2 群馬県太田市駒形神社埴輪窯跡の調査(昭和62年度)によって埴輪集積所から、ここで問題にしている組合式入母屋造家形埴輪の屋根上半部が4点出土している。整理途中であったが、実見したところこれと組合うと考えられる下半部も4点出土しており、おそらく両者は組合って4点の組合式入母屋造家形埴輪になると考えられる。実際、屋根上半部と下半部が近接して出土しているものもある。現地見学及び実見に当たっては太田市教育委員会社会教育課の宮田 毅氏の御配慮を頂いた。
註3 おそらく、壬生町茶臼山古墳例はくびれ部上から出土(本図録16頁参照)しており、本来は後円部上に組合式入母屋造家形埴輪として置かれた。その屋根上半部のみがくびれ部上部に転落したため下半部を欠くのだろう。
挿図出拠
第1図 東京国立博物館提供
第2図 1、筆者撮影 2、文献7写真から図化 3、東京国立博物館提供 4、文献5
第3図 1、文献5 2、芝山はにわ博物館提供
第4図 文献5
第5図 1、文献1 2、文献3 3、文献4
第6図 文献6
第7図 文献10に一部加筆
第8図 表の文献に依る
付記)脱稿後、埼玉県生出塚埴輪窯址出土例が組合式入母屋造家形埴輪に復元されていることを知った。『鴻巣市史』資料編1考古 1989.3
第8図 東国出土の組合式入母屋造家形埴輪(1/20)
(番号は表のNo.に対応)
(番号は表のNo.に対応)
組合式入母屋造家形埴輪一覧表 | ||||||
No. | 遺跡名 | 所在地 | 墳形・規模 | 備考 | 文献 | |
1 | 今城塚古墳 | 大阪府高槻市郡家新町 | 前方後円墳 | 190m | 1 | |
2 | 長原3号墳 | 大阪府平野区 | 2 | |||
3 | 石見遺跡 | 奈良県磯城郡三宅町石見 | 3 | |||
4 | 大谷山22号墳 | 和歌山県和歌山市岩橋 | 前方後円墳 | 67m | 4 | |
5 | 群馬県伊勢崎豊城町大字八寸字権現山 | 前方後円墳 | 赤堀71.72 | 5 | ||
6 | 群馬県多野郡吉井町大字本郷 | 赤堀107 | 5 | |||
7 | 群馬県藤岡市白石字下郷 | 赤堀106 | 5 | |||
8 | 塚廻り4号墳 | 群馬県太田市大字竜舞字塚廻り | 帆立貝式 | 22.5m | 6 | |
9 | 群馬県伊勢崎市豊城町大字八寸字権現山 | 赤堀75 | 5 | |||
10 | 群馬県伊勢崎市豊城町大字八寸字権現山 | 赤堀74 | 5 | |||
11 | 群馬県伊勢崎市豊城町大字八寸字権現山 | 赤堀80 | 5 | |||
12 | 群馬県伊勢崎市豊城町大字八寸 | 赤堀77 | 5 | |||
13 | 群馬県伊勢崎市豊城町大字八寸 | 赤堀79 | 5 | |||
14 | 群馬県佐波郡境町大字上武士 | 赤堀92 | 5 | |||
15 | 二ツ山古墳 | 群馬県新田郡新田町大字成塚 | 前方後円墳 | 74m | 赤堀96 | 5 |
16 | 群馬県伊勢崎市波志江町 | 赤堀94 | 5 | |||
17 | 群馬県勢多郡大胡町 | 7 | ||||
18 | 群馬県勢多郡大胡町 | 7 | ||||
19 | 群馬県邑楽郡大泉町 | 7 | ||||
20 | 本郷埴輪窯跡 | 群馬県藤岡市本郷 | 8 | |||
21 | 駒形神社埴輪窯 | 群馬県太田市 | 太田市保管 | |||
22 | 群馬県佐波郡 | 相川考古館 | ||||
23 | 茶臼山古墳 | 栃木県壬生町羽生田 | 前方後円墳 | 86m | 9.10 | |
24 | 明神山3号墳 | 栃木県足利市朝倉町 | 円墳 | 14m | 11 | |
25 | 瀬戸ヶ谷古墳 | 神奈川県横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町 | 20 | |||
26 | 経僧塚古墳 | 千葉県成東町野堀 | 円墳 | 45m | 4点出土 | 12 |
27 | 塚本山15号墳 | 埼玉県児玉郡美里村 | 円墳 | 20m | 13 | |
28 | 御手長山古墳 | 埼玉県本庄市小島 | 円墳 | 42m | 14 | |
29 | 三ヶ尻林4号墳 | 埼玉県熊谷市三ヶ尻 | 円墳 | 26m | 15 | |
30 | 埼玉県大里郡川本町出士 | 赤堀54 | 7.20 | |||
31 | 埼玉県大里郡岡部町出土 | 赤堀55 | 7.16 | |||
32 | 埼玉県大里郡江南付出土 | 17 | ||||
備考覧には後藤守一1933『上野国佐波郡赤堀村今井茶臼山古墳』の家形埴輪番号を表示。 |
文献
- 原口正三他『高槻市史』第一巻本編Ⅰ 1977.2
- 野上丈助『特別展図録 大阪府の埴輪』 1982
- 末永雅雄「磯城郡三宅村石見出土埴輪報告」『奈良縣史蹟名勝天然記念物調査報告』第13輯 1935.2
- 末永雅雄「岩橋千塚」『関西大学文学部考古学研究紀要』第二編 1967.3
- 後藤守一『上野国佐波郡赤堀村今井茶臼山古墳』帝室博物館第六 1933.3
- 石塚久則・橋本博文『塚廻り古墳群』 1980.3
- 『考古学資料図録』Ⅰ 国学院大学考古学資料館 1978.12
- 津金澤吉茂・飯島義雄・三宅孝子「群馬県藤岡市本郷埴輪窯跡出土の埴輪について」『群馬県立歴史博物館紀要』第1号 1980
- 八木奘三郎「下野国下都賀郡羽生田の古墳について」『東京人類学会雑誌』116 1895
- 『壬生町史』資料編原始古代・中世 1987.10
- 『明神山古墳群』足利市埋蔵文化財報告第12集 1985.12
- 滝口宏他『芝山はにわ解説書』芝山はにわ博物館 1988.4
- 『塚本山古墳群』埼玉県遺跡発掘調査報告書第10集 1977.2
- 『埼玉県本庄市御手長山古墳発掘調査報告書』本庄市教育委員会 1978.10
- 『三ヶ尻天王・三ヶ尻林(1)』埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第23集 1983.3
- 八木奘三郎他「武蔵国大里郡本郷村古墳調査報告」『東京人類学会雑誌』17-193 1902
- 『埴輪一流山の古墳文化を考える-』流山市立博物館企画展調査研究報告書3 1985.7
- 『東京国立博物館図版目録』古墳遺物篇(関東Ⅰ) 1980.3
- 『東京国立博物館図版目録』古墳遺物篇(関東Ⅱ) 1983.2
- 『東京国立博物館図版目録』古墳遺物篇(関東Ⅲ) 1986.3
(財団法人 栃木県文化振興事業団 技師)