親抱きの松

読み:おやだきのまつ
 地図26


 
所在地上稲葉字北浦

 南北朝の時代、南条左衛門正春という武士がいました。正春は宇都宮の軍勢に加わり、各地で戦いましたが、武運つたなく戦死してしまいました。
 京に住む正春の妻登美留は、夫の訃報に悲しみ、宇都宮氏に預けられていた娘の小桜を慕って旅にたちましたが、稲葉の地で旅に疲れ亡くなりました。
 悲報を聞き駆け付けた小桜は、この地にとどまり日夜母の霊を供養していましたが、小桜も病にかかり帰らぬ人となりました。
 村人たちは、この母と娘を憐れんで墓に二本の松を植え墓標としました。いつしか二本の松は、娘が母を抱くかのようになり人々から『親抱きの松』と呼ばれるようになりました。
 昔、この稲葉の地を訪れた忠臣蔵で有名な吉良上野介が、この悲しい物語を聞き、
「心なき 人に見せばや 下野の 稲葉の里の 親抱きの松」
と詠んだと伝えられており、傍らの石碑に旅人の歌とともに刻まれています。