所在地 | 上稲葉字峯他 |
昔、黒川は羽生田から上稲葉をとおって流れていました(「嘉陽が丘ふれあいひろば」がのる台地の西側)。
壬生城主の三浦氏(1638~1692)は、羽生田から峰つづきの台地を掘削し、黒川の水を鯉沼から下馬木方面に流す大工事を行ないました。これにより元々、川底だった上稲葉方面は、広い美田となりました。今日、上稲葉にのこる後河原、前河原、上河原、下河原などの地名はその昔、川が流れていたことを物語っています。
現在、堤跡は長さ約200mにわたり、稲葉の地を黒川の氾濫から護るように残っています(黒川の西岸)。
堀切跡と堤跡については、これらの工事を裏付ける文書などは確認されていません。真偽の程は定かではありませんが、江戸時代前の戦国大名の壬生氏が行なった大土木工事の可能性も考えられます。