日本ではいったいいつごろからヒョウタンが伝播し栽培されたかはあきらかではありませんが、これまでの発掘調査によるといまから約8,500年前の縄文時代早期にまでさかのぼることができます。ヒョウタンとして現在知られている最古の遺物というのは、福井県三方町鳥浜貝塚出土の果皮種子などで、縄文時代の古い段階から栽培植物として存在していたことが明らかになっています。では、縄文人は、このヒョウタンをどのように利用していたのでしょうか。これを解くカギとして、ヒョウタンのもつ特性を挙げることができます。ヒョウタンの特性とは、成熟すると外皮が硬くなり、乾燥すればコルク状になり簡単に加工することができます。今でも西アフリカのモシ族、バンバラ族では、生活にかかすことのできない重要な道具(用具)として利用され、日本でもつい最近まで炭入れとして利用してきました。縄文時代においては、ヒョウタンの先端を切り取った容器が鳥浜貝塚から発見され、弥生時代に至っては、ヒョウタンを縦に二つに切り、下の半球形にふくらんだ部分の中味をくりぬいた「杓子」が群馬県日高遺跡から発見されています。もうひとつの特性としてヒョウタンは、ウリ科の中では果皮が硬いため長い間土中にあった考古資料でも、よく元の状態をたもっています。ここでは、こうしたヒョウタンの持つ優れた特性や古代におけるヒョウタン加工のすばらしさを土の中に埋もれていた考古資料から紹介していきます。
鳥浜貝塚
福井県三方郡三方町鳥浜にある縄文時代(草創期・早期・前期)の大遺跡で、低湿地遺跡からは漆塗りの土器や櫛、精巧な木工品、縄や編物、ベンガラ塗りの土器をはじめ数多くの石器・骨角器・自然遺物などが出土しています。このうち特に自然遺物のうちでもきわめて珍しい植物であるアフリカ原産のヒョウタン、暖流にのって漂着したヤシの実がみつかりました。その他、シソ、エゴマ、リョクトウ、ゴボウなど栽培植物の種子も顕著にみつかり、すでに農耕が行なわれていたことが確実視されています。
日高遺跡
群馬県高崎市日高町にある弥生時代後半の水田跡で、東日本では静岡県の登呂遺跡に次いで発見された水田跡として多くの人々の注目を集めました。低湿地遺跡からは、土器をはじめ木製品・獣骨類・自然遺物(ヒョウタン)などが出土し、水稲農耕、畑作、狩猟、採集によって弥生人の生活の様子を知るうえで貴重な資料を提供しています。
下野国府跡寄居地区遺跡
栃木市寄居町にあり、奈良・平安時代の集落を主体とする遺跡で、8世紀後半~9世紀末の遺物が出土しています。特に、井戸の中からは木簡・木製品・自然遺物(種子・ヒョウタン)などが出土しました。本遺跡は、下野国府跡政庁のⅠ~Ⅳ期にあたるところから国府跡との密接な関係が予想されます。
また、隣接する長原東遺跡からもヒョウタンが出土しています。
上三川町多功南原にあり、奈良・平安時代の集落遺跡です。本遺跡は昭和47年に調査が行なわれ官衙的(推定「田郡」駅家址)な建物跡が多数確認されました。今回の調査でも多数の遺構・遺物を確認しました。出土遺物は土器・瓦類を中心に、井戸の中から木製品(曲物、櫛)・自然遺物(ひょうたん果皮、種子)なども出土しています。
上三川町上神主にあり、弥生~鎌倉・室町時代に至る集落遺跡です。弥生~平安時代の竪穴式住居跡620軒を確認する他、堀立柱建物跡、鍛治工房跡、井戸跡など多種の遺構を確認しています。出土遺物は土器・瓦類を中心に、井戸の中から木製品(曲物)・自然遺物(ひょうたん果皮)なども出土しています。
小山市東野田にあり、旧石器~中・近世に至る遺跡で、多種多様の遺構・遺物を確認しました。特に、奈良・平安時代の火災住居からは、多量の炭化材や植物繊維が出土し、また、銅製品の生産に関わる製錬炉跡や鍛治工房跡を確認しました。出土遺物は土器を中心に、中世後半の井戸の中から木製品、自然遺物(ひょうたん果皮)なども出土しています。