ここでは、壬生町は栃木瓢(ふくべ)の発祥地と伝えられていますが、しかし、いつ、どこでふくべ栽培がはじまったかは定かではありませんので、ここではいくつかの栽培発祥起源説について紹介します。
日本における瓢栽培のはじまりには、滋賀県説と栃木県説それに大阪府説があります。まず、①天文年間(1532~1554)中国から伝来し、滋賀県、兵庫県、岡山県などで栽培されていた。②神功皇后三韓征伐凱旋の折り、御産衣(皇后が船中で応神天皇を生誕)を木津の地に埋められ翌年その地よりユウガオの新芽がでた。③慶長(1596~1614)の初期、長束正家が水口城主であった頃、はじめてこの栽培に着眼し農民に栽培させたという。その後正徳2年(1712)水口城主が加藤嘉矩に変わり、旧領下野国壬生の製法(長剥き)に則りその普及をはかったという。④元禄2年(1689)近江水口御山の農民井上兵左衛門が山神の新墾地にユウガオを栽培し、干ぴょうとして売り出した。以来周辺の村の副業として盛んに栽培したという。⑤正徳2年(1712)水口城主加藤氏が下野国壬生から水口に移封された時、文助という馬まわり役の者が一握りの干ぴょうの種子を持ってきて水口の城下の主家の畑の一部にこれをまいた。夏になってみごとな干ぴょうができたという。
以上のようにさまざまな伝承がありますが、いずれも口碑や昔話によるもので、確かな文献が残っていないため不明です。
壬生町内の伝承では、正徳2年(1712)に近江国水口領主から壬生領主となった鳥居伊賀守忠英が領内の生産性が低く、産物が少なかったために、忠英は郡奉行松本茂右衛門に干ぴょうの栽培を命じた。茂右衛門は近江国木津村より種子を取り寄せ、その種子を黒川の東西の名主に試作させたが、川東の藤井村名主篠原丈助のみが成功したということである。これが野州干ぴょうの起源となります。
室町時代の代表的国語辞書の一つです。
上下2巻から成り、全巻を18門に分けてあります。各門に約3千を越える語を収め和語のみでなく漢語をも多く収めて、室町時代の普通語の状態を伝えるもので、辞書としては語の用法、用字法を示し語源に言及することも多く、規範的なものです。
「干瓢」の文字が確認できる最初の文献です。
56. | 寛文5. 11年日次記 |
江戸時代 17世紀 | |
日光山輪王寺蔵 |
日記は諸大名から日光山輪王寺に対して献上された品物の控え帳です。特に、寛文5年・11年の日記のうちに水戸宰相殿(水戸光圀)が「干瓢」を献上した記録もでています。
壬生藩主4代鳥居忠濤が文化2年(1805)7月1日(旧暦)から29日まで1ヶ月にわたる大名の食事のメニューを記録した「御献立帳」です。
壬生藩鳥居家の奨励作物である「干瓢」は1ヶ月間に9回も食膳にのぼり、いつも残さずに食べた記録もでています。