港区の特性

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 「天と地との拓(ひら)け初めし 久しき遠き昔より 寄せては返し永久(とは)にやまぬ 海の白なみ妙(いみ)し奇(く)すし」(区立南海小学校・大正5年制定)の校歌からは、現在の港区の姿はとうてい想像できない。しかし港区の教育は、その母体である地域の地理的・歴史的環境の変遷の中に生き続けている。現在までの港区の教育の歩みをより深く理解するために、地域としての港区のもつ特性を挙げてみたい。
 港区の地理的特性を考えるとき、東京都という世界有数の大都市の中で、千代田・中央・文京・新宿などの都心各区と共通する特色をあげることができる。例えば、昼夜間人口の変化が大きい地域であること、人口減少地域であること、第三次産業中心の地域であることなどがそれである。
 港区は、昭和22年(1947)3月、行政機能の不均衡是正と自治権拡充を目的として、芝・麻布・赤坂の3区が統合され、特別地方公共団体の特別区となったが、この旧3区の特性が現在も生き続けている。
 麻布、赤坂の旧2区は、武蔵野台地の東端にあり、江戸中期には、山の手と呼ばれ大名の広大な屋敷や寺社地のあったところで、明治時代以降、その跡地は軍施設や皇室関係、学校などの用地となったところも多いが、全体としては敷地面積がかなり広い居住地域として形成されていった。一方、旧芝区は、江戸湾岸に沿う低地と、武蔵野台地の東端から成る地域で、低地は高輪大木戸をはじめ江戸の表玄関となったところである。東海道の街道筋は、交通の要衝として古くから商工業のさかんな地帯となった。また、一部の台地は大名の下屋敷や寺院によって占められたが、江戸郊外となる朱引(しゅびき)地外もあり、田畑が点在したところもあった。
 現在の港区は、これらの時代の都市景観をそのまま移行させることはできないが、東京湾岸沿いや台地の入り谷などの低地は、商工業地帯として発展し、台地は居住地域としての面影をとどめている。
 幕末期、江戸の表玄関となった高輪・三田周辺の寺院には、各国の外国公館が置かれ、また、芝赤羽には赤羽接遇所が設置されるなど、港区は幕末から明治初期にかけ、我が国における外交発祥の地となった。
 明治時代のはじめ、東京外国人居留地として築地(中央区)が選ばれたこともあって、港区内にも外国文化が早くから流入し、地域産業を刺激した。その後、外国公館は日本の政治の中心機関が集中する千代田区へ移っていったが、昭和初年に麻布を中心に港区地域に転入したものも多かった。太平洋戦争後、我が国の外交範囲の拡大とともに、居住地に適した港区の台地に外国公館がさらに増加し、都内で最も多い数となった。
 また、この欧米外国人居留者の影響を受け、キリスト教関係の教会や私立学校の数も多い。享保年間以後の幕府の政策で、芝・麻布・赤坂の旧3区域には寺町が形成されて寺院数も多く、宗教区としての色彩も強い。更にキリスト教・仏教系のほか、江戸時代末期の私塾より発展した私立学校数の多いことも大きな特色であろう。
 このように港区を眺めるとき、都市構成の歴史の重みと次々に生まれる高層建築に埋まりながらも、都心区には珍しい公園緑地も多く残っている。この環境の中で、現在なお都内でその数を誇る国・公・私立の各学校が長い伝統に支えられ活動しているのである。