港区は、武蔵野台地東端のほぼ中央部にあり、台地とその入り谷、海岸低地が入りこみ、東京都23区の中ではもっとも起伏に富む地形となっている。
現在の港区は、高層建築が立ち並ぶ景観からは、台地と低地という地形高低の差は目立たなくなったが、起伏の大きい坂の多い町であることは昔と変らない。石川悌二『東京の坂道』には、東京全体の坂は486あり、その中で港区は108を占めているとある。区内各小・中学校の校歌にも、台地からの眺望を歌詩に詠(よ)みこんだものが多い。
「千代田の宮居 間近くあおぎ 緑の丘を めぐらすところ」(区立鞆絵(ともえ)小学校・昭和10年制定)
「気も澄みわたる 丘の上に 茂る大樹の 陰にいて」(区立赤羽小学校・昭和5年制定)
「北に千代田の宮を仰ぎ 西に霊峯富士を望む 月の岬の栄ある丘に」(区立御田(みた)小学校・昭和16年制定)
「緑のもりに風わたる ここ高輪のおかの上 そびえてたてるまなびやよ」(区立高松中学校・昭和26年制定)
など枚挙にいとまがない。
「紺がすりに 袴をつけた男の子が 鳥居坂を勢いよく駈け登り 駈け降りる 下駄の音が調子よく 馬のひずめのようにひびきわたり 遠くの空には 富士も見える 晴れた日の 緑の朝を 鳥居坂の上のもやの中に 今も夢にみる麻布小学校の想い出が渦巻く」(麻布小学校大正8年卒・大内青圃=仏像彫刻家)
右の詩は、大正中期の児童の通学姿とともに、学校付近の坂の景観を伝えている。
台地より東に東京湾を見下ろし、西に富士を望む景勝の地が往時の港区であった。この台地から低地に向かう大小の坂道について、昭和50年(1975)10月、港区区民部商工課から「坂の由来」の紹介がされている。
これによると、名のついた坂が100余カ所もあり、坂の由来が不明なもの、坂の位置が不確かなものは除き、区役所で標柱をたてた80カ所をみると江戸時代からひらけた区内諸地域の土地の地形、景観、歴史的変遷を知ることができる。
これらを坂名の由来からみると坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたためその名がつけられたという「潮見坂」を始めとして、地形、景観等から坂名をつけたと思われるものが30カ所をこえている。
坂の中腹に魚籃(ぎょらん)観音を安置した寺があるため名づけられた「魚籃坂」を始めとして、寺社名、僧侶等の人名から坂名をつけたと思われるものが20カ所にのぼる。
坂の西側に江戸時代を通じて、紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた「紀伊国(きのくに)坂」を始めとして居をかまえていた大名、旗本等の名からきたと思われるものが10余カ所ある。
日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝えられる「日東坂(日糖坂)」等のように開発が進み、明治以降に開かれたといわれる坂が7カ所余もある。多くの坂につけられた多彩な坂名から区内諸地域の姿を知ることができる。