[図3] 家康入府のころの江戸(西山松之助・芳賀登著『江戸300年』より作成)
現在のように、広い海岸低地が形成されたのは、江戸時代初期よりの東京湾埋め立て工事によるものである。往時は、現在の品川、田町、浜松町、新橋の国鉄各駅とその周辺は海底と考えてよい。なお、今の日本橋から新橋にかけての地域は、江戸外島の砂州があって、その西は日比谷入江になっていたから、愛宕山はその入江の入口に臨んでいた。
一方、高輪台地・三田段丘と飯倉台地・愛宕山の間には古川が流れ、この流域地帯では最大の谷底低地がある。北の溜池低地と共に大部分の地層が粘土とシルトからなる沖積層で構成されている。
[図4] 地形(『新修港区史(自然の歴史)』)
これらの東京湾(江戸湾)に面した海岸線の埋め立てが始まったのは、徳川家康の江戸城修理からといわれている。この時は修理というよりも築城といってよい大改築で、城のまわりの堀割りつくりの残土を日比谷入江に投げこんだもので、文禄元年(1592)のことであった。
更に、慶長8年(1603)、江戸城の拡張と城下町整備のため、諸大名70家を13組に分けて編成し、いわゆる「天下普請」がはじまった。駿河台・御茶の水の丘が切りくずされ、現在の日本橋浜町から新橋付近まで埋め立てがすすんだ。
江戸城がほぼ完成し、江戸城下町割りが形を現わすようになったのは寛永年間3代将軍家光の時代になってからである。寛永13年(1636)、赤坂・四谷・市谷・牛込の外堀が完成した。当時、赤坂の溜池は江戸城の外堀としての役割を果たしていた。江戸時代の大規模な埋め立てはこの時代で終わり、その後江戸末期まで港区内に属する海岸線は、江戸港の外港として大名の蔵屋敷をはじめ潮入り、船入堀、揚場が整備されたにとどまった。
嘉永6年(1853)6月、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーはアメリカ合衆国大統領の使節として、江戸湾に入航し、それまで鎖国攘夷一辺倒であった幕府を仰天させた。老中阿部伊勢守は、重なる外国船の来航でしばしば海防に関する建議を行ってきた韮山代官江川太郎左衛門英竜を招き意見を聞いた。その結果、江戸湾の防備に、富津、観音崎に台場を築き、その中央に海堡(かいほう)を築くことを決定した。
当時、幕府は江戸城西の丸普請、12代将軍家慶の死などで財政が極度に窮乏していたが、海防の事は一日もゆるがせにできずと、それまで建議になかった高輪沖海堡・台場の構築が始められた。この海堡・台場は、当初の計画の12カ所のうち、7カ所の埋め立てが実施されたが、幕府の財政が許さなかったことと、幕府の開国への政策転換で中止となった。なお7番目は礎石の段階で終わっている。埋め立て用の土砂は、高輪泉岳寺の境内、その周辺の台地、品川御殿山を切りくずし、海岸から大小の船に積んで運ばれた。
海岸の埋め立てが本格的にすすめられたのは、明治時代以降のことである。明治9年(1876)、鉄道開通直後の地図[図5]を見ると、海の中の堤防の上を鉄道線路が走っていたことがよくわかる。これが現在の東海道線の位置である。また、風俗画にも当時の情景をとらえることができる。明治39年東京港修築工事の第一歩として、第一期・第二期隅田川改良工事がはじまった。
[図5] 明治9年当時の海岸部
以後、現中央区より港区にかけての湾岸は、港湾としての諸設備とともに、大規模な埋め立てが繰り返され、岸壁・桟橋・運河が整備され、国際貿易港としての機能が整えられた[図6]。これら東京湾の変化は、
「百(もも)船千(ち)船入り通う 東京港にほど近く 学ぶ吾らはかの海の ひそむる力慕うなり」
(区立芝小学校・昭和15年制定)
「都会のひびきは たゆるときなく 希望の緑を 越えてここに 東京港の潮風 かよえば」
(区立芝浜中学校・昭和24年制定)
の校歌によく現われている。
[図6] 明治時代以降海岸埋め立ての歴史(港区立三田図書館編『近代沿革図集』より作成)
現在、港区地域に属する港湾施設として、「日ノ出桟橋」大正14年(1925)竣工(しゅんこう)、「芝浦岸壁」昭和7年(1932)竣工、「竹芝桟橋」昭和9年竣工、「浮桟橋」昭和11年竣工、「品川ふ頭」昭和42年竣工があげられる。