市街地化が進む明治時代

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 明治維新後、港区の行政区画の変化ははげしく、とくに明治11年(1878)の「郡区町村編制法」公布までの改正は、目まぐるしかった。
 明治2年、江戸幕府の民政制度であった「名主制」を廃止、朱引地内の町地を50に区分し、一区割を番組とよび中年寄、添年寄を選任したことから始まる。港区は、朱引の内外にまたがる地域にあった。50区の設置は、当時の町人人口が約50万あったのを、一区割1万人を標準にして分けたもので、港区地域の朱引内は14番組より22番組に属した。ついで、朱引外の郷村にも5区が置かれたが、港区地域内の朱引外の地域は、一番組26町9村の範囲に入った。その後、明治4年大区小区制となった。
 明治11年7月22日、「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」が公布された。同年11月、新たに15区6郡に改編された東京府の行政区画は、現港区地域に、芝・麻布・赤坂の3区が形成された。このとき、従来の朱引外であった各町村は郡部となり、白金村、今里村、三田村は荏原(えばら)郡に編入された。
 明治21年8月公布の「東京市区改正条例」は、首都東京の市街地改造計画を制度化したものであった。市区改正委員会により答申された基本計画は、政治都市としての首府の外観整備に主力がおかれた。財政難のため、計画自体も縮小されたが、本区関係をみると新橋・上野両駅間に高架線による鉄道線絡の建造、芝新網町、金杉川沿岸(古川河口)に芝魚鳥市場、芝区白金村今里玉縄の内に白金獣畜市場と屠場(とじょう)の新設がすすめられたほか、青山墓地も拡張整備された。
 上水道整備も市区改正事業の一環として、明治25年より着工、給水場の用地難で難航したが、同29年に竣工(しゅんこう)した。淀橋浄水工場から芝給水工場間を1100ミリメートルの鉄管で結ぶ本格的な上水道であった。
 港区と深く結びつく東京港の築港計画は、明治33年になって始まる。それまで横浜側の反対や、築港の中心地争い、建設費の問題から長い間放置されていたが、芝地区中心に築港することが決まった。このように、都市外観が整うに従い、芝区、麻布区、赤坂区の市街地としての性格も次第に明確になっていった。
 明治初年、武家地は旗本屋敷を含め、荒廃の一途をたどった。新政府は、幕府から受領あるいは借用していた旗本をはじめ旧幕臣、町人の土地を接収することを決めた。東京府の武家地は、明治3年の調査で、朱引内764万余坪、朱引外400万余坪、合計1169万余坪で、全市街地の約60パーセントを占めている。
 東京府知事大木喬任は、明治2年8月、太政官(だじょうかん)に桑茶政策の建言をおこない、幸橋内、旧南部藩邸に物産局を設置した。桑・茶の植付けの希望者には、身分にかかわらず、入札のうえ地所を払い下げるか、貸し与えた。しかし、この政策は、首府東京を発展させようとする政府の政策と矛盾した。
 一方、近代化へのスローガンである富国強兵策を背景に、陸軍用地、海軍用地が広がり、新政府の役人の邸宅や官公庁が広大な武家地に置かれた。また、東海道の幹線道路が通じる芝区地域には、官営工場や大資本による近代工場がつくられていった。
 また、麻布、赤坂区の台地の武家地では、一部に、桑茶政策の名残りもあったが、青山御所をはじめとする皇室用地、麻布三河台町の第一師団歩兵第一旅団司令部、歩兵第三連隊(麻布竜土町)、青山練兵場などの軍用地が形成されていった。また、麻布・青山の武家地は、高燥で静かなうえ、眺望にも恵まれていたから、明治後期には、華族や高級官僚の住む邸宅地としての色彩も濃くなっていった。
 
  あの坂の頂上から狸穴、飯倉片町、六本木へかけての三河台あたりは、お邸町で至極物静かな上品な通りでした。
  大正元年までは電車も通っていず、真昼間と雖(いえど)も森閑(しんかん)としていたものです。四ツ辻から、あの通りを見渡しても、左側に鍋島・松平・都築・有賀・相良などの諸邸があり、右側には稲葉邸・徳川邸(頼倫侯)・星邸など、何れも広壮な邸宅で、堂々たる高塀と門とが並んでいました。
          (島崎藤村『大東京繁昌記』所収)
 
 市街地化が進んだ明治時代の姿を示すものとして、公立小学校の設立がある。明治年間、芝区(12校)、麻布区(8校)、赤坂区(5校)で計25校が設けられている。現港区の区立小学校数27校と比べると、ほぼ同数である。