震災と戦災を越えて

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 大正時代の区内を地域的に概観すると、山の手の邸町といった趣のある麻布、赤坂の両区に対して、芝区は下町的で商店が立ち並ぶにぎやかな町並と、古川流域から芝浦にかけて小工場群がひしめく活気のある工業地、白金から高輪の住宅地と寺町というようにきわだった分かれかたをしていた。大正3年(1914)発行の『東京概観』で港区地域の特色をみると、
 
  ○皇室用地が多く、占める面積も広かった。
   東宮御所(芝区高輪西台町=旧熊本藩細川侯邸)
   赤坂御所(赤坂区=旧紀州藩邸、明治6年皇居焼失後、一時仮皇居)
   青山御所(赤坂区青山)
   芝離宮(芝区=旧大久保忠朝邸)
   東伏見宮邸(赤坂区葵町)・久邇宮邸(麻布区鳥居坂町)・朝香宮邸(麻布区鳥居坂町)・華頂宮邸(芝区三田台町)・東久邇宮邸(麻布区鳥居坂町)
  ○各国大公使館も、麹町区と並び多い。
   アメリカ大使館(赤坂区榎坂町)・オランダ大使館(芝区栄町)・スイス公使館(麻布区材木町)・ベルギー公使館(麻布区裏霞ヶ関)・ポルトガル公使館(赤坂区新坂町)・スペイン公使館(麻布区広尾町)・ブラジル公使館(赤坂区葵町)・シャム(タイ)公使館(麻布区霞町)チリ公使館(麻布区材木町)
  ○軍用地も赤坂・麻布地域に集中していて連隊の町としてのイメージも強かった。
   近衛歩兵第二旅団司令部(赤坂区一ツ木町)
   近衛歩兵第四連隊(赤坂区青山北町)
   歩兵第二旅団司令部(赤坂区青山南町)
   歩兵第三連隊(麻布区竜土町)
   近衛歩兵第三連隊(赤坂区一ツ木町)
   歩兵第一旅団司令部(赤坂区青山南町)
   歩兵第一連隊(赤坂区檜町(ひのきちょう))
  ○芝区内は、15区内でも屈指の工場地帯であった。
   芝浦製作所(芝区金杉新浜町)・池貝鉄工場(芝区本芝入横町)・東京市電気局工場(芝区浜松町)・
   沖商会電機製造所(芝区田町)・東洋印刷株式会社(芝区愛宕町)・専売局第二煙草製造所(芝区田町)
  ○商業地域も広がりを見せて、繁華街が形成されていった。
   〈芝〉  銀座に近い芝口一帯、新橋、日陰町、田町
   〈麻布〉 麻布十番、六本木、三河台町、飯倉
   〈赤坂〉 一ツ木から新町
 
 芝地区の商店街は、この時代の東京を代表する日本橋・銀座(中央区)に連なる繁華街となったが、麻布・赤坂の商店街は表通りのみで限られた地域住民の生活品供給地の性格が強かった。
 大正期の港区地域は、明治期の市街地形成を追う確立時代であったが、市街地としての姿は、幹線道路によってもわかるように、江戸市街の名残りを多くとどめていた。
 大正12年9月1日の関東大震災は、江戸時代の名残りを各所にとどめる東京を一変させることになった[図12]。
 

[図12] 地震でくずれ落ちた新橋駅(『関東大震災鉄道被害写真集』)

港区地域は城東地域にくらべ、倒壊、焼失の被害は少ないとはいえ、芝区内の4分の1は焼失、赤坂区内も赤坂田町から榎町一帯が灰になった。被害が少なかったのは、麻布区のみである。港区地域内の公立小学校27校中、鞆絵(ともえ)小学校など9校が焼失している。
 「震災復興」で、当時の東京市民が実感としてとらえたものは道路の改良であろう。急坂をならし幅員を増し舗装された道路は、街を一変させた。愛宕山を突きぬいてつくられたトンネルも、芝海岸から麻布へ抜ける新しい交通路となった。
 また、3区の中で一番被害を受けた芝区内の近代市街化は、企業ビル街の鉄筋コンクリート化により、街の様相を一変させた。再建される公立小学校も、それまでの木造建築から鉄筋コンクリート建築に変わった。
 大震災は、もう一つの面で港区地域の発展をうながした。震災直後、アメリカからの救援物資を積んだ船が芝浦に到着したが、喫水(きっすい)が深く、桟橋に接岸できなかった。アメリカ船は、船底を傷つけて強行接岸してくれたが、このことで東京築港が現実化した。竹芝桟橋の完成は、昭和9年(1934)のことである。
 大正8年(1919)からのベルサイユ体制下の軍縮問題、昭和2年(1927)にはじまる経済恐慌を背景に日本は軍国主義の傾向を強め、昭和6年満州事変をおこした。更に、一部の若手将校は昭和11年、麻布歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第三連隊の一部の兵を率いて、高橋是清蔵相をはじめ内大臣・陸軍教育総監等の政府要人を襲撃殺傷するという事件をおこした。世にいう二・二六事件で、赤坂区域の人々はもちろん、全国民を驚かせた。この事件を契機として、時局は大きく右旋回していった。
 昭和12年には日中戦争、昭和16年からは、アメリカ合衆国、イギリスをはじめ全世界を相手にする戦争に突入していった。戦況がし烈となるに従い、一般国民への社会的・経済的締めつけは更にきびしくなっていった。一般疎開から、学童の縁故、集団疎開もすすめられ、港区地域の人口は激減した。
 昭和19年7月、サイパン島が陥落してから、全国の主要都市、軍施設はアメリカ軍爆撃機B29の爆撃目標となった。東京の大空襲は、昭和20年3月9、10日の両日から本格化し、5月23、24日の爆撃で区内の大部分は焦土と化した[図13]。
 

[図13] 赤坂見附交差点付近の焼跡(石川光陽撮影)

 昭和20年8月15日、日本は敗戦を迎えた。戦後の復興は、焦土での虚脱と飢えの中からはじまった。新橋周辺の大規模な「闇市(やみいち)」、品川駅8番ホームへの海外からの引揚者、復員軍人のようすが当時のすべてを物語っていよう。
 昭和21年9月、帝国議会で「東京都制」「府県制」「市制」「町村制」改正法が可決。この改正法に従い、都は芝・麻布・赤坂の3区を統合し、港区とした。
 昭和22年5月、「新憲法」と同時に「地方自治法」が施行され、港区も「特別区」として新発足した。また、昭和27年11月、港区教育委員会も行政組織として整えられた。
 戦後の港区市街地に大きな変化をもたらしたものは、昭和33年12月、紅葉館跡地(芝公園4丁目)に建てられた「東京タワー」と、昭和39年10月10日にはじまる「東京オリンピック」であろう。「東京タワー」は当時世界最高(333メートル)の電波塔で、東京の新しい象徴となったが、放送の歴史と港区とは、深く結びついている。大正14年(1925)7月、愛宕山からラジオの放送という、わが国に画期的な情報伝達の大事業が開始された。現在のNHKの前身で、実際には同年3月から放送されることになっていたのだが、愛宕山放送局の完成が遅れたので、とりあえず試験放送の名のもとに、芝浦の仮放送所からわが国最初のラジオ放送がおこなわれた。
 「東京オリンピック」の開催にあたっての準備は、都心区の整備と、青山を中心とする施設の建設からはじまった。まず、道路・地下鉄の整備、拡張から手をつけ、ガス・上下水道・電気・電話などの共同溝、首都高速自動車道、モノレールの建設と、まさに、港区中の地面が掘りかえされる有様であった。このため、沿道住民の強制立ち退き、代替地、公営住宅の斡旋などさまざまな問題も起こった。ともあれ、港区はこのオリンピックを境に、都心化傾向が一段とすすんだ。
 昭和40年代以降、高度経済成長期の波にのり、超高層建築ラッシュがすすむとともに、市街地も激変し、青山・麻布・白金の住宅地にも高層化した集合住宅が林立するようになった。
 激変する港区ではあるが、かつての旧3区でみせた特性は現在でも生きている。増上寺をはじめ数多い寺社境内は、アスファルトとコンクリートの街のオアシスであり、麻布・赤坂の外国公館は幕末から明治期の歴史を思い出させる。
 
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 港区地域の人口
関連資料:【くらしと教育編】第1章第1節 (2)戦後の港区