戦後の区内交通の大躍進

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 太平洋戦争後の港区内の交通が大きく変化したのは、モータリゼーションの発達と、東京オリンピックによる市街地改造からである。
 
 ・道路 オリンピック関連事業として、青山通り(国道246号線・放射4号線)の拡幅、環状3号線(明治記念館横―青山1丁目―六本木7丁目)、環状4号線(北青山3丁目―墓地下)、放射23号線(表参道方面)が重点整備された。
 ・モノレール 羽田と浜松町(13キロメートル)を結ぶモノレールの完成は昭和39年9月のことで、本格的な都市交通としてのモノレール車の利用は、世界最初のことである。
 ・首都高速道路 1号線(中央区宝町―港区海岸3丁目)が開通したのが、昭和37年2月で、昭和42年までに、首都高速環状線、1号羽田線、2号目黒線、3号渋谷線、4号新宿線が完成し、インターチェンジは、谷町、一ノ橋、浜崎橋の3カ所に、ランプは、汐留、芝公園、芝浦、飯倉、天現寺、高樹町の各所に設置された。
 ・地下鉄 昭和42年12月、最古の歴史をもつ三田車庫で、当時の東京都知事美濃部亮吉が都電の廃止を宣した。
 
 これより先、昭和30年代に入って、この都電に代わる地下鉄の建設ラッシュが続いていた。
 
  日比谷線=東横線と伊勢崎線の相互乗入れ(昭和38年)
  丸ノ内線=池袋~新宿(昭和37年)
  浅草線=京浜急行と京成線乗入れ(昭和43年)
  千代田線=常磐線と乗入れ(昭和47年)
  三田線=三田~高島平(昭和51年)
  半蔵門線=二子玉川~半蔵門(昭和57年)
 
 区内関係の路線であるが、このために、それまで都電のみに頼っていた地域に新しい息吹きの街づくりが起こった。