職人の町とその移り変わり

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 江戸時代から、各種産業の発達していた芝地域は、明治5年(1872)の『東京府志料』でみると、手工業で100余にわたる雑貨手芸品を生産していたことがわかる。股引(ももひき)・腹掛・足袋の繊維加工から、ねり油・櫛(くし)・筓(こうがい)・かんざし・元結(もとゆい)・水引などの小間物、錦絵・絵双紙などの印刷製本、家具・木工品と当時としては多様である。
 その主要生産地域は主として四つの地域に分けられる。第一は、芝口1丁目から浜松町4丁目に至る東海道沿道で、神明・宇田川・柴井などの町に代表される。第二は、飯倉界隈であり、第三は、三田同朋町・三田台町から芝田町・芝車町・二本榎1丁目にかけての臨海地域である。
 第四は、赤坂見附から青山に至る地域で、赤坂田町・赤坂新町・赤坂一ツ木の各町がそれにあたる。
 主要な手工業品のうち、家具の生産は三田、飯倉を中心に早くから盛んであったが、これもこの地域が官庁街に近いことと、外国人居留地や外国公館と接する機会に恵まれていたため、机・椅子・テーブルなど洋家具製造にも手をつけていった。のちに港区工業の一特色たる地位を築いた洋家具製造の始まりで、その後、芝中門前町・芝栄町などにも広がっていく。
 このほか、人力車・馬車・写真絵・洋灯・ランプ・石けんなどの舶来模倣や文明開化の時代に即応した工業もおこっていく。当時の日常生活品、雑貨工芸品の製造者は、「居職人」とよばれる一群の家内職人層で、自分の生活の場に仕事場を設け、小売りを兼ねながら、問屋資本の支配下に組入れられていた。
 これら職人たちの多くは、資本主義経済発展の過程で、工場制機械工業の低賃金労働者として没落していくが、家具・印刷・染物などの部門では、家内工業的色彩を残す小企業として存続していくものもあった。