官営工場から近代工業へ[図22]

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 明治新政府は近代国家建設の一路線として「殖産興業」を積極的にすすめ、資本主義の発展を図った。
 明治7年、赤坂葵町の伊万里県出張邸跡地に、「殖産興業」の推進の中核となる官営工場の管理機構「工部省」の庁舎が新築された。その工作部門は、芝赤羽、品川、深川の3工作分局と、兵庫・長崎の二つの造船所より構成されていた。赤羽工作分局は、明治4年12月、芝赤羽の久留米藩邸跡に設けられた最初の機械製作の官営工場であった。
 明治10年代末期から20年代前半にかけて、国内各地の官営工場は民間資本を刺激し、日本の資本主義経済は走りはじめた。いわゆる第1次産業革命期に入った。この時期、本区内でも多くの製造工場が開設された。
 とくに、明治の後半期に入ると、芝浦を中心とする芝地域の臨海地域に工場が増加し、集中化する傾向を示し、京浜工業地帯形成の過程をみることができる。
 明治41年の第2次産業革命末期、この芝地域には、72工場、職工数4984人とある(『東京府統計書』)。とくに、芝浦付近が工業発展の中心的役割を果たしたのは、明治39年から始まった隅田川口改良工事による東京湾埋め立てで、広大な工場用地を安い価格で手に入れたことが一因となっている。
 

[図22] 明治時代の工場のようす

 港区の産業として特異な発展をとげたものに、芝愛宕下の洋家具製造があげられる。この発生については前述したが、急激な発展をとげた原因は千代田区、中央区の洋風建築ラッシュにある。その代表的なものが、「三菱が原」(現丸の内)の近代ビジネス街の出現である。この地域に隣接するという立地条件と伝統手工業に支えられ、愛宕下から田村町、烏森町一帯に高級家具店が軒を並べた。
 第1次世界大戦中よりはじまった好況期に、新しい工業地域が誕生した。古川沿岸の小工場集団である。金属製品や機械の製造工場を中心とする町工場で、震災後も発展を続け、一ノ橋上流から麻布新広尾町、芝白金志田町、白金三光町(さんこうちょう)などに広がった。更に満州事変以後は、軍需工場としての活路を見出し工業地帯を形成した。