ビジネス街と商業地域[図23]

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 太平洋戦争前、芝地区の低地に集中していた商業地域とビジネス街は、東京経済圏の爆発的発展により、それまでの中心地域であった中央区、千代田区方面から押し広げられてきた。
 昭和41年、新橋の東口の「新橋駅前ビル」や、46年、西口に建てられた「ニュー新橋ビル」は、かつての焼跡闇市(やみいち)の名残りを一掃させた。これより先、新橋から西新橋にかけての外堀通りは、商業地域、ビジネス街として港区では一番早くビル街が形成されていった。この余波をうけ、西桜・南桜の区立小学校が人口減少により統廃合の運命をたどった。
 虎ノ門地区に大手企業ビルが集中しているのに対して、西新橋地区は金融機関の街としての個性を育てていった。また、新橋駅周辺から烏森通りにかけて、中華料理店をはじめ飲食店が軒を並べ、大繁華街を形成している。静かな高級住宅地、兵隊の町、料亭と自動車屋の町と印象づけられていた青山・赤坂・六本木地区も大きく様変わりした。昭和50年代AAR地帯と呼称されているこの地域は、麻布飯倉の一部を巻き込んで東京の若者たちの愛する街に変容した。テレビ会社、広告会社を中心に、デザイン・イラスト・服飾、写真・フィルムなど関連美術企業、ファッション関係の小店舗、飲食店が集合ビルなどに華のように店頭を飾りたてて立ち並んでいる。
 昭和45年3月、東京港玄関口港区の貿易都市を象徴する「世界貿易センタービルディング」が国電浜松町駅前に完成した。地上40階、高さ152メートルのこのビルは、区内の超高層ビル化への先がけとなった。
 

[図23] 現在の港区用途地域(『港区史』上巻)