・建造物
法泉寺本堂(芝2丁目)寛政10年
増上寺三解脱門(芝大門4丁目)
旧台徳院霊廟惣門(芝大門4丁目)
光林寺棟札(南麻布4丁目) 寛政元年
氷川神社社殿(赤坂6丁目) 享保15年
龍原寺本堂(三田1丁目)弘化3年
宝生院本堂(三田4丁目) 寛政4年
覚林寺清正堂(白金台1丁目) 寛延4年
旧武家屋敷の長屋(三井クラブ内=三田2丁目) 幕末期
・絵画・工芸品
三門釈迦三尊(増上寺蔵)
了海上人木坐像(善福寺蔵)
呉越物語絵巻・寛永年間将軍日光御社来事執行之図等(御田八幡神社蔵)
法然上人絵伝(増上寺)
十六羅漢図(天真寺)
梵鐘 (阿弥陀寺) 都下最古 天徳2年
(天徳寺、龍原寺、天真寺、明称寺、天現寺、光林寺、種徳寺等)
・古文書
足利成氏文書、元禄一〇年上高輪村検地帳、細川様より御寄附等覚、薭田神社由来記等、三田八幡関係文書、御宝蔵末社作事記等(御田八幡神社)
足利直義御教書、古良氏朱印状、寺社奉行連署の裁許状等(芝大神宮)
御陽成天皇綸旨、徳川家康書状、東山天皇宣旨等(増上寺)
松平不昧(ふまい)の手紙、松平月潭(げったん)の手紙等(天真寺)
本願寺顕如書状、教如書状、北条氏朱印状、豊臣秀吉朱印状等(善福寺)
北条氏康朱印状、北条氏直朱印状(芝、内田氏旧蔵)
国師日記、異国日記、諸条目案(金地院)
亜墨利加ミニストル公使旅宿記(善福寺)
東禅寺天寿室日記(東禅寺)
周光山役寮・外国書願留(済海寺)
・史跡・金石文等
内海台場(港南5丁目)
渡辺綱の産湯の井戸(三田2丁目)
丸山古墳(芝公園4丁目)
柳の井戸(元麻布1丁目)
首塚(北青山2丁目)
高輪、大木戸跡(高輪2丁目)
旧白金御料地(白金台5丁目)
新銭座習練場(海岸1丁目)
三田薩摩屋敷焼打ち事件の跡(芝2丁目)
浅野内匠頭(たくみのかみ)終焉の地(新橋4丁目)
赤羽接遇所跡(東麻布1丁目)
城南読書楼(南麻布1丁目)
御薬園跡(南麻布3、4丁目)
増上寺御隠居地の跡(元麻布3丁目)
赤穂義士自刃の地(長州毛利邸=六本木6丁目、肥後細川氏邸=高松宮邸高輪1丁目)
櫓下・高札場(元赤坂1丁目、赤坂4丁目)
赤坂門跡(赤坂3丁目)
勝海舟邸跡(赤坂6丁目)
・墓(都指定文化財)
安島直円(和算家、寛政10年没) 常林寺 三田4丁目
堀 杏庵(儒(じゅ)家医、寛政19年没) 金地院 芝公園3丁目
杉田玄白(蘭医、文化14年没) 栄閑院 虎ノ門3丁目
佐藤直方(儒家、享保4年没) 瑠璃光寺 東麻布1丁目
藤森天山(学者、文久2年没) 曹渓寺 南麻布2丁目
林 鶴梁(儒家、明治11年没) 澄泉寺 赤坂1丁目
井部香山(儒家、嘉永6年没) 報土寺 赤坂7丁目
英(はなぶさ) 一蝶(いっちょう)(画家、享保9年没) 承教寺 高輪1丁目
大久保利通(政治家、明治11年没) 青山霊園 南青山2丁目
大国隆正(国学者、明治4年没) 陽泉寺 赤坂1丁目
(注 明治の墓石もあるが、都指定文化財なので掲載)
・墓(国指定史跡)
浅野内匠頭長矩(ながのり)(大名、元禄14年没) 泉岳寺 高輪2丁目
荻生徂徠(おぎゅうそらい)(儒家、享保13年没) 長松寺 三田4丁目
江戸時代までの都指定文化財を中心に列挙したが、このほか、区内各寺社の祭礼・縁日なども無形の文化財といえる。
江戸三大祭に挙げられる日枝神社の祭礼や、芝神明社の「だらだら祭り」が有名である。文化財の主体は、氷川三社、芝大神宮をはじめとし約40カ所の神社、増上寺をもって代表される約270カ所の寺院、大名旗本の屋敷跡である。
大部分の寺社・邸宅は、太平洋戦争の戦火で焼失したため、建造物文化財として現存するものは極端に少ないが、増上寺三解脱門、赤坂氷川神社社殿、三井クラブ内の大名屋敷長屋門などに江戸時代の面影を求めることができるし、焼失を免れた古文書、美術品は、港区地域の歴史と往時の繁栄を物語ってくれる[図2]。
[図2] 赤坂氷川神社社殿(港区立みなと図書館編『写された港区』4)
とりわけ各寺院に残された墓石は、当時の寺院の歴史や格式を語るとともに、江戸時代、多くの文人墨客を集め、文教地区としてのイメージを高めていった港区地域の教育環境を知ることができる。
現在、港区内の寺院の多くは、高層ビルの狭間にあって敷地が削られ、墓地も縮小、往時、寺院経営に参画した壇家も四散という受難の時代である。このようななかにあって、古墓地、古墓石の多くが次第に消失していく傾向にある。各寺院にかろうじて残された過去帳などを頼りに、区内の墓石を調べた『港区の文化財』(港区教育委員会編)1集から14集にある江戸時代末期までの著名な人物の墓石をみると、本多信勝をはじめとして旗本、幕臣の墓が多いことは当然であるが、大名墓石もかなり残されている。東禅寺(高輪3丁目)の備前岡山藩池田吉政をはじめ、その数は50余にものぼる。大名は藩地に菩提寺をもつのが通例であるが、江戸詰のときの回向と、江戸に定着していた家族のためのものであったのであろう。
儒学者、国学者、その他の学者や医師の墓石も非常に多いことが特色である。儒者は、堀杏庵・佐藤直方・荻生徂徠など江戸の各時代で活躍した人々をふくめ、50基余に及ぶ。また蘭学医として「解体新書」で知られる杉田玄白をはじめ、典医など医師の墓石も30余を数える[図3]。
このほか、画家や書家・歌人・通詞(通訳)・能楽師・俳人など文人がその墓石を連ねている。これらのことから、当時の港区地域の教育的環境を推し量る一助とすることができる。
[図3] 徂徠・玄白の墓石
関連資料:【学校教育関連施設】